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製作著作山ボケ社
無断転載を禁ず

パプアニュ−ギニア紀行


 パプアニューギニアは1973年にオーストラリアから独立し、ニューギニア島の東半分を占める独立国である。西半分は西イリアンと呼ばれ、インドネシア領に属す。ニューギニア島の最高峰は西イリアンにあるが、4000m峰で高度的にはあまり差がないようである。しかし、いずれにせよ政治的、治安的事情、あるいは地理的なアプローチの問題からか、観光客が登山対象と出来るような状態にはなっていない。ちなみに、本田勝一のエポックメイキングな「ニューギニア高地人」は、今や西イリアン領となった土地のもの。さて、今回はその東半分の最高峰ウイルヘルム山を目指したわけである。標高は(アトラストレックのパンフレット)4500m、(『世界の400山』)約4670m、(パプアの添乗員によれば)4800mなどとされており判然としなかったが、一行の高時計によれば4510mくらいという結果であった。
 ウイルヘルム山は、キナバルに比較すると、初日は楽。密林の中のぬかるみを踏みしめつつ、ナントカ庭園風の草原の縁などをたどり、ピウンデ湖という氷河湖から流れ出る清冽な滝の脇の急登を登れば、4時間くらいで山小屋に着いてしまう。
 登山基地のケグルスグルからは石斧を下げたおじさん達が大名行列のように同行して来るが、いつの間にか次第に数を減じている。ようするにヤジ馬というものらしい。そのヤジ馬氏の一人に密林の中の赤いカンザシのような可愛らしい花の名前を、"What is the name of this flower ?"と尋ねると、平然と"flower"と答える。
 彼らはスリムなタンザニアのガイド達に比べると脊が低くズングリしている。しかし、体は筋肉質で無駄な脂肪を付けていず、起重機のような足をしている。また、陽気が暖かいせいか裸足のものも多く、ヌカルミにズボッと残った足型は土踏まずが発達していて、いかにもたくましい。
 小屋の高床の下には日本製の発電機があって、持参してきたガソリンで健気なうなり声をあげた。午後は小屋の前のロマンチックなピウンデ湖の畔でお昼寝−というところだが、トイレが清潔とはいいがたいために皆が外で何するので要注意ではある。湖の水は自然保護か炊事に使うためか、顔を洗ったり洗濯することは禁じられている。
 湖の正面は崖になっていて、稲妻型に雪渓がへばりついているようにみえたが、よくみると滝であった。一段上に双子のようにアウンデ湖という氷河湖があり、そこから一気に流れ落ちているらしい。ピウンデ湖を巻いて20分くらいで対岸の滝の基部に出るると、下の滝よりも一回りスケールが大きい。滝の上部まで行ったつもりだったが、稲妻の下のクの字の部分をほんの少しうろついただけだったようだ。
 小屋から前景を振り仰げば、アウンデ湖らしい平坦地を残したその奥に結構な斜度の斜面がそそりたって空を画している。少々役不足に思われたが、左の目ぼしいピークを指差して、“あれか?”とラーズ君に尋ねると、とんでもないといわんばかりに、尾根のずっと右の方をぐるっと指で示し示しながら、“登頂の15分前にピークをみれるだろう”という。ラーズ君は26歳のイスラエル人で4年前にイスラエルを出てフィジーなどに住んだ後、2年前からパプアに住んでいるとのこと。パプアは良い所だといっていた。歯科技工士だったらしいが、数年後には帰国して大学で遊園地の設計を勉強したいとのこと。彼が仕込んで持って来てくれたチキンとビーフのカレーは絶品であった。日本男児も兵役で炊事を憶えてきてほしいなどと思ってしまうほどであるが、我が身を省みて、この際沈黙は金。
 2日目のアタックはキナバルより厳しい。夜中の2時出発。昨日の滝の脇の、真っ暗な瀬音だけの世界を上って行く。アウンデ湖も静まり返った沼のようだ。沢筋についた踏跡をグングン上ってひたすら高度を稼いで行く。真っ暗で却って幸い。ガイドのジョンが  “マダン”といって指差す方向をみれば、海岸線とおぼしき線を成して灯りのラインが望めた。太平洋戦争の記録で聞いたことのある町の名前である。
 4時頃、あなうれしや、うすら灯りの中、風が流れて尾根道に出た気配となる。右へ右へと巻いて行く。途中、灯りを持たない先頭のジョンがそれまでスタスタ歩いていたのに、ふとルートがわからないといって、ラーズ君があちこち探すポイントもあった。5時半頃、一本とっている時に強烈な冷え込みを覚え、皆あれこれ着込む。一番若いA君が出発しようと立ち上がった直後、激しく嘔吐をした。
 2、3の岩の前山を大きく巻き終わると、突然眼前にアトラスのパンフレットで見覚えのある岩峰のピークが現れた。頂上らしい、それなりの風格をもっている。右壁は垂直でとても登れず、左に巻いて攀じ登る。6時半頂上。
 頂上に立てばなかなかの見晴らしで、遠くからも見えそうなに思える。しかし、岬の先端のような尾根の端なので、反対側の人跡未踏の山野原からしか見えなさそう。やはり山はキリマンやキナバルのような独立峰の方がドラマチック。約30分間、狭い山頂に後続を待つ。風がたいそう強く、かなりきついものがある。ヒッピーのような風呂敷スカートに、草履の足にビニールをグルグルと紐で巻き付けたスタイルのラーズ君は、鼠子憎のようにスカーフをツルツルの坊主頭に巻いて寒さを凌いでいたが、他人事ながら身の不幸が察せられることであった。ツア−リ−ダ−によれば、“この時、登頂を祝する花吹雪のように小雪が舞った”。
 帰路は、徐々に晴れてくる霧に二つの氷河湖が透けて見降ろせ、それがなければ殺風景な風景を味わい深いものにしていた。アウンデ湖の対岸は垂直に切り立った壁に囲まれており、水も一層深碧で、神秘的だ。その斜面の、山道から少し降ったところにプロペラ付きの翼がころがっていた。下の斜面にもいくつかの破片がジェラルミン色の光沢を輝かせてちらばっている。太平洋戦争中に尾根に激突した飛行機の破片である。旧日本軍のものと記されている本もあるが、正確には連合軍のもので10、20人位の遭難者があったらしい。
 小屋帰着は11時。後続部隊3名は約1時間半後に、OさんにA君とB氏が引率されたかたちで帰着。Oさんは100名山を70以上も制覇しているベテランで、下山後に筋肉痛が全くないとのことで私を驚かせた。年相応にマイペースを守ったというところか。B氏は「足が吊った」と20回くらいボヤイテいたとのこと。事前情報で軽そうに聞いていただけに、いささかきつい印象を受けたが、ツア−リ−ダ−氏も「キリマンより厳しい」などと、冗談まじりにいっていた。ラーズ君が、日本人のツア−を案内するのは3回目だが、前回は2名の人が14時間かかっても頂上にたどり着けず戻って来たとのこと。
 ウイルヘルム山は67年に西丸震也が日本人として初登頂し、87年には田部井淳子さんがツア−リ−ダ−して登頂した記録が山渓にのっているが、しんどそうには書かれていない。未明の2時出発だと道がぬかるんでいるということもあって厳しい感じになるのかもしれない。下山は登頂の翌日なので、ご来光を気にしなければ4時か5時頃出発でよいような気がする。しかし、午後は曇って展望がないし、雨が降ることが多いので、そのへんがむずかしいところである。実際、登頂後、小屋に戻って寝袋にくるまっていると、天地創造の時もかくやという土砂降りが降った。“湖の水辺の何も、何もかもすべてが、あの湖の中へ流れ込んでしまうナア”と思った。こんなのには外では会いたくないものである。
 ニューギニア高地は一般に雨の多い所であり、ある地方では言語学者が”月”や”星”に相当する言葉を収集できなかったという話がある。そこでは日中の数時間のみ日照があるだけであり、夜間はずっと雨が降っているので、土地の人が月や星を見たことがなかったとの由。
 なお、今回の記録はツア−リ−ダ−の佐々木慶正氏が岳人(91年10月号グラビア)に書き、私の「後姿」の写真が3枚と頂上でVサインしている小さーな写真が1枚のっている。さらに、アトラスのウイルヘルム山のパンフレットにも頂上の写真が使われるようになった。しかし、肖像権を無断に使っておきながら、半年以上もたってから、年末決算で海外旅行保険の未払分12000円が発見されたので払うようにとは、アトラスはよほど図太い会社である。


 登山終了後にタリという一際未開な土地に行く。登山基地のケグルスグルの人に、“これからタリに行くだ”というと、“あそこはislandだよ”と、さも自分達が文化的な生活を送っているといわんばかりに言われる、そういう土地らしい。
 さて、プロペラ機でマウントハーゲンから約1時間一層内陸に入り、飛行機で舞いおりて見れば、“この怪鳥を見ん!”とばかりにビッシリと土地の人々が飛行場の網にシラミのようにへばりついていて、見物している。タリの第一印象といえば、妙にきこえるかもしれないが「泥」ということである。ここでは人々の顔も衣類も草葺きの家もすべて雨を含んだ泥にまみれている。我らの文明というものが道路にアスファルトを敷きつめて泥を隠しおおすことによって成り立っているのだ、という思いをあらためて抱かされる。
 小雨の中を密林帯を切り開いて作った泥道をマイクロバスにゆられて行く。草の腰蓑を付けた人が、Tシャツ短パン姿の人に交じって道路工事していたり、市場に何の違和感もなく交じっている。途中、お弁当箱の上に相撲の櫓(やぐら)を建ててような真新しい土盛りがあった。2、3日前に殺された若い男のお墓ということだった。ずっと容器のない生活を送って来たので、アルコ−ルに耐性がなく、飲むとすぐ暴れだしてこのような結果を招くものらしい。20世紀のこの時代にかくも未開な土地があろうか、自分がこのような異次元的世界を訪れられるのは最初で最後ではなかろうか、という感じが身を包んできて、ほとんどスリリングだ。
 泥と鬱蒼たる密林帯はどこも均一に思われ、飛行場から何故かくも長い時間運搬される必要があるのかといささか怪訝に思い始める頃、丘の斜面に、遠めには御殿のような大屋根と、その周囲に草葺き屋根の小屋を点在させる集落がみえた。
 丘の中腹から、腰蓑にスニーカー姿の男に守られた砦のような門の中に招き入れられ、密度の濃い密林を分け入って坂道を下った所が、アンヴュアロッジというホテルであった。ロビ−は剥き出しの丸太の梁が高く天井を支えている造りで、民芸調ではあるけれど、周囲とはまた隔絶された世界で、二重の異次元世界へスリップしたようだった。嬉太郎の音楽が似合いそうなロビ−でBGMに耳を傾けながら、はるかかなたを幾重かの山並みに縁取られた、雨に煙る密林の風景を見降ろしていると、時間を超越した宇宙に漂ようているような気がしてくる。そして、草葺きの一戸棟の個室にじっとしていると、鳥の囀りしか聞こえない。ぼんやりしていると、ふと、自分が透明の触角を伸ばして、ジャングルの懐深さをまさぐっていることに気が付く。
 帰国してからも、癖になってしまったらしくボ−としていると、触角を伸ばして周囲を探っている。しかし、触覚は厚く無表情な無機質なコンクリの壁のようなものにあっという間にはじき返されてくる。また、晴れていた筈なのに突然、夕立のような雨音があたりに立ち込めたので、慌てて外に出ると相変わらずの晴天で、狐につままれたように感じたことが2度程あった。単純にいえば、ジャングルでは物音がしなかったということ。構造的に解釈すると、意識のはざまに、密林帯にいた時の聴覚にふとチャネリングされてしまうと、文明世界の微細な騒音のすべてを拾ってしまうが、生来体験的に突然の雑音の横溢というものは通常驟雨によってもたらされてきたものなので、「雨!」という反応をしてしまうということでしょう。聴覚にも御馳走というものがあるということがわかりました。


 そしてまた、日本の時空は何と底が浅いのであろうか・・・と、例の通り、しばし、日本嫌悪とパプアニュ−ギニア恋いにふけるのでありました。


後記;これは1991年8月に行ったパプアニューギニアの紀行文で、友人への手紙に加筆したものです。もっとまっとうな形にしたいところですが、それは今後の課題として、今回は一応この形としました。ご意見をお寄せいただけましたら幸いです。
山ボケ猫 著
出版日;1992年3月28日