|
|
|
妙高難民キャンプ物語
(メールからの抜粋編/’99.10.9〜11の記録)
9日は早朝、武蔵野線新小平駅を6時前に出発、大宮にて6時55分の新幹線に乗車。あっという間(8時9分)に長野着で、旅情がない。なさ過ぎる!しかし、便利だ・・・。
9時前妙高高原駅。京都よりのミチコとアッシーMの迎えを受け、スーさんと合流してランクルにて燕温泉へ。9時半から妙高を目指して歩き始める。妙高は雲の中。擦れ違った人の、“頂上は晴天で、富士山まで見えた”という話に半信半疑。しかし、連休の初日に日帰り登山してくる人がいることは謎であった・・・。そして、その謎は後ほどあかされることになったのだった。鎖場下にてランチ。でも、頂上はそのほんのちょっと先だった。池の中に荒々しい岩の塊がごろごろしているような所だ。火打の頂上が流れる雲に隠されたり、現れたりしていた。結構、アップダウンがある悪路を黒沢池ヒュッテへ向かう。
黒沢池ヒュッテ前は夕方の新宿並み雑踏。予約の有無とは無関係に先着順で、16時15分到着のわれらには部屋は割り当てられなかった。6交代の食事が終わってから食堂で寝よとのこと。夕食まで混雑を避けて木道まで行って、宴会をした。星がきれいだったが、0度に冷えて、寒がりの癖に薄着だった私は胴震いがした。食事が済んだ10時過ぎに、食堂に100人以上詰込まれた。小屋全体では定員60名に300名は押込まれたのではないか。横になるためには頭を45度に折曲げ、足を壁の小棚にのせ、手はジグソーパズルのごとく隙間に折曲げなければならなかった。自分と接触している人体のパーツが頭なのかお尻なのかよくわからないし、確かめようという気も失せていた。20分毎に目をさまして体位交換。ラッシュアワーというべきか、難民キャンプというべきか。この日の黒沢池ヒュッテの混雑は宿泊した者たちによって、末代まで語り継がれるであろう。
10日は火打へ。朝食の混雑をおそれて、朝5時前に出発。スーさんとミチコは玄関に、アッシーMは靴箱にて夜をあかしたそうで、私が一番図太く場所を死守して眠ったのかも。高谷池ヒュッテで、小屋製弁当なる赤飯パックを食べる。湿原を背景にした火打の優美な秋姿にうっとり。ここ、1,2週間でもっと赤くなるのでは。次は是非、高谷池ヒュッテでのんびりしたいものだ。しかし、直前1週間学会準備で寝不足の上に、黒沢池難民キャンプで一夜を過ごした身には、なだらかにみえた斜面もちときつい。コースタイムオーバーして、ようやく頂上じゃ。足下に日本海、佐渡、粟島、西真近かに焼山(目下、入山禁止ということだが、噴煙も出ていないし、そのうち登りたい)、コウモリを思わせる黒い雨飾山、すぐ南には高妻、戸隠、黒姫、そして遠方にくっきりと白馬、五龍、鹿島鎗、槍ケ岳、穂高、そのあたりにクマさま御一行はいられたのでは。東には富士山、八ケ岳、苗場山などなど。黒沢池ヒュッテに戻って、昼飯。燕新道を燕温泉に下山。
杉野沢温泉に浸かる。白濁した緩めの温泉が良かったのか、悪寒がとれて、元気回復、生返る。温泉の効能は素晴らしい。侘しい感のある、妙高高原ビールレストランで祝杯をあげる。予約の取れた長野のビジネスホテルへ。11日は高妻か四阿(あづまや)山にしようか迷ったけれど、四阿(あづまや)山にする。
11日は5時25分の始発で上田へ。タクシー使って菅平へ入り、牧場からまづ根子岳へ。なだらかな斜面で、自然に足を前へ出しているうちに1時間半で頂上へ。連日の疲れよりも慣れが出た感あり。妙高・火打がみえる度に嬉しい。200m下って鞍部へおりて、350mを登り返して四阿山頂上。正面に鹿島鎗をすえた北アルプス屏風が屹立し、妙高・火打の頸城3山、浅間、乗鞍、御岳、中央アルプス・・・・。いままでの山頂からの風景の中でも3指にはいる絶景じゃ。あの山、この山と眺めながら、おばさん達に教えていると、1時間はすぐたってしまった。由緒正しい古道、鳥居峠へ下る。紅葉に浅間のシルエットが背景となり、高い秋空に白い糸のような数条の雲。こんな日に山に登らないなんて気が変!と思えたことでした。
そして、山に登らない人生なんて変!と思えた3日間でもありました。
|

|
|