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モンブラン入門の記
改訂版

1.プロローグ
モンブランはMont Branc、フランス語で白い山。フランスの南東部、スイスとイタリアとの国境近くに位置するヨーロッパ最高峰であり、標高は4807m。6つの際立った山稜を有す。登山基地はフランスのシャモニーとイタリアのクルメイユールがあるが、シャモニーからのルートが一般的である。
さて、10数年前の夏の日、最初にシャモニーからモンブランを望んだ時の印象は、テラテラと輝く氷河面が、はるかな高みから街へ向かって雪崩うって落ちてくる、ダイナミックで眩しい山塊という感じであった。今回、あらためて眺むれば、このクラスの山で、これほどその登頂ルートと山頂を、観光の人目に晒している山もなかろうという感じがする。世界でもっとも美しい山の一つともされているのは、その目撃者の多さに依っているのかもしれない。
シャモニーの街角の、何でもないカフェーでコーヒーをすすりあげる。鼻にかかったフランス語をBGMにしつつ、絵葉書を書きながら、ふと視線を上げる。何とそこには、今朝、その山頂を踏み、そして降りてきたルートを一望のもとにとらえられるのである・・・。右手の黒々とした三角形の右縁がグーテ小屋に突き上げるパイネ岩稜、三角錐の頂点にグーテ小屋、そこから丸くドーム、痩せ尾根ボス山稜が続き、そして、山頂・・・。一際、愛着が湧き、登頂の満足感に浸れることである・・・。
さあ、モンブランへ。
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2.モンブランへの道
朝7時30分、車で迎えに来たガイド、ジョンルイさんとパークホテルを出発する。ジョンルイさんは30代前半くらいの、面長、額にやや後退傾向がみえる点が減点対象ではあるものの、なかなかの美男子である。日本人の常識からははずれた長く細い足を、さらに強調するかのように黒いタイトなタイツ姿で、フランス人にしては気さくな感じがする。単独女性の2日間のパートナーとしては、“当たり!”という感じで、ほくそ笑・・、ではなかった、胸をなでおろす。
20分位でシャモニから南西へ7,8Kmの所にあるレ・ズーシュ(le
Houches)という集落にあるロープウエイ乗り場に到着する。ここは海抜約1000m、空はどんよりと重い。ロープウエイはすぐ出発する。「切符は帰りと共用なので、無くさないように」と申し渡される。しかし、切符紛失名人の私は、ここでもその例に洩れず、帰途はお目こぼしを頂戴する破目となった。
眼下にシャモニーの街が小さく谷間に密集しているのが望めた。終点駅ベルヴユー(Bellevue)は標高約1800m、ちょっとした草原になっている。名前通り晴れていれば展望の良さそうな所だ。ジョンルイさんはせっかちな性分らしく、セカセカと歩いて行く。後を追うと、一昔前の田舎駅のような駅と切符売場があった。登山電車の乗り場らしい。ここでは30〜40分位待たされた。
大分からの3人女性陣と、それを率いる江藤氏という男性の4人組と言葉を交わした。女性の一人も江藤氏と同姓で、江藤氏は「離婚した亭主」と、紹介されるが、真相は遂に不明であった。女江藤さんは気さくで痩せ型、看護婦のKさんは中肉、自衛隊勤務のHさんはや太目ということで、ノートに、「細、中、太」と注釈をこっそりと記入したつもりだったが、覗かれてしまった。女性陣が「土産は何が良いかジョンルイさんに聞いて」というので尋ねると、怪訝そうな顔をして、「そりゃ、モンブランさ」といって、腕でモンブランをかっさらうような仕草をした。
江藤氏は現在は静岡に在住しており、モンブランは3回目とのこと。モンブラン山群の西の尾根にある秀峰ビオナッセー(Aig
de Bionnasay)の北壁コースもこなしたことがあるという。また、ヒマラヤの7、8000mクラスの山の遠征経験もあるという、紛れもないベテランである。私はマッターホルンのベルベデーレ(ヘルンリ)小屋でアタック予定日の早朝に降雪に遭遇し、急遽、モンブランへと流れてきた身であり、モンブランについては無知蒙昧状態であった。といっても、実はマッターホルンについても、そう事情は変らないのだが。江藤氏が駅の看板地図を指し示しながら説明してくれたので、ようやく概念が掴めた。他パーテイーの方とはいえ、心強いばかりである。初めて、ドームなる言葉も耳にする。初日はグーテ小屋に入るだけのハイキングコースかと思っていたが、意外と手ごわそうである。
江藤氏が、一見、“日本人?”と疑われるような、インディオ風のオカッパ頭のお兄さんと言葉を交わしていた。他にも日本人がいたのね。戻ってきた江藤氏によれば、「湯河原の戸高さんで、K2を単独無酸素で登って来たところだそうだ」とのこと。そのスーパーマンぶりには信じがたい思いがした。奢った感じのない方で、今にして思えば、お見知りおきを御願いしておくのであった。なお、97年の夏の情報によれば、次回はエベレスト単独無酸素登頂の準備中で、連日の富士山トレーニング中であり、素人のガイドどころではないとのことらしい。
登山電車は尾根の北西反対側にあるサン・ジェルベ・レ・バン(St-Gervais-les-Bains)という麓の街から、延々8kmを観光客を満載して来た。2両編制のミニ電車は山裾を巻きながら、ゆるゆると次第に高度を稼いで行く。終点で、突然、モンブラン山群の氷河がまぶしく眼前に登場した。上の方は曇っていてみえないが、白い斜面が陽に映えて、神々しい。ここは、ニ・デーグル(Nid
d'Aigle)、鷹の巣と呼ばれる2370mの場所だ。
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3.登山開始 −テト・ルソーまで−
8:54、出発前の、例の通りいささか強ばった表情を写真に収めて早々に出発する。歩き始めはガレ場のガラガラとした変哲のない登山道だ。ジョンルイの足ばかり見て歩いていると、「×××」と何か言った。顔を上げると、すぐ脇にヤギのような動物がいて、岩の間に頭を突っ込んで、モグモグと草か苔を食しているようだった。人通りの多い登山道の道端で、野性動物がこのように無防備であることに驚いた。日本とは異なる、懐深いのどかさを示しているようだ。さらに、もう1頭が、すぐ右脇の岩の上に、穏やかな哲人のような風貌をもって、人の列を睥睨(へいげい)していた。「シャモニーエレファント」と、ジョンルイさんがいう。フランスの山奥でエレファントとは・・・。後で調べた所によれば、偶蹄目ウシ科の、つまりニホンカモシカの仲間の、シャモア(Chamonix)という動物らしい。「エレファント」が、冗談だったのか、地方の通称なのか、いまだにわからない。戸高さんが、奥さんか恋人という感じの女性を、後からあおるような勢いで通過して行った。「さすがですねー」と声を掛ける。後日、「山と渓谷」のインタビュー記事によれば、ガイドかスポーツインストラクターをされている奥様であった。
9:49、ゆるやかな約1時間の登りの後に、3分間の休憩をとった。やや平たいガレ場で、ここまでは南アルプスという感じだ。Baraque
Forestiere des Ronges(直訳すると“鹿が反芻する森林の小屋”??? 誰か正しい訳を教えて!)という窪みらしい。標高約2800m、通常、子連れハイキングはここまでというポイントのようだ。
尾根を巻いて行くと、遠くにレギューデュミデイ針峰群(l'Aiguille
de Midi)がみえた。ジョンルイ君は絶好の写真スポットを心得ているといわんばかりに、カメラを出すようにせかし、写真をとってくれた。
最初の休みから1時間近く行くと、雪渓が出現した。それをトラバースしたところが、テト・ルッソー(le
Tete Rousse)、赤い頭といわれる、3167mの見晴らしの好い場所で、洒落た山小屋兼レストランがあった。左手に針峰群が壁のように聳え連なっている。ジョンルイ君は当然の様に山小屋の中に入って行く。いつものコースのようである。中に戸高カップルが休んでいた。ここまでは鷹ノ巣からの標高差800m、ガイドブックでは2〜3時間とのことである。
レストランで10:53〜11:30まで過ごした。食事を待つ間に片言のフランス語を試してみたり、パリに40年以上住んでいる画家の叔父さんがいることなどを話す。名前を書いて貰う。Jean
Louis Dall'Armiがフルネームで、Dall'Armiが姓、Jean
Louis が名であり、友人達も彼を“ジョンルイ”と呼ぶのとのことであった。つまり、アメリカ人のように、“ジョン”などと気安く呼んではいけないようだった。話をしているうちに、ジョンルイ君の英語がフランス語風にかなりなまっていることに気が付いた。「モンタン」が「マウンテン」だと、分った時の驚き・・・。半分くらいしか通じないわけだと、自分のヒアリング能力を棚に上げて納得する。また、某フランス人に、面と向かって、「あなたの英語はチンプンカンよ」といわれた時のトラウマ(精神的外傷)も蘇る。私の喋っていることも、ジョンルイ君によく分っていないのかもしれない。
スープ、サラダ付のオムレツで、やや早めのランチを取る。豊富なレタスの緑が荒涼とした風景に一層鮮やかだ。今回の山旅の最高の料理で、味と雰囲気に、すっかり満足してしまう。しかし、戦闘的な山登りをするにはあまりにも幸せな気分で、満腹過ぎる点が不似合いで不安になるほどだ。
すっかり重くなってしまった体を、陽光に溢れた戸外に引き摺り出す。戸高さんの奥さんが寛いでいる姿と、本格的登山姿に変身する準備に励む大分の4人組が目に入った。江藤氏が、戸高さんにサングラスの予備がないか大声で尋ねていた。日本語はしっかり左脳を直撃する。戸高夫妻は顧客のガイドの下調べに入っただけであり、この後、下山したらしかった。
“こんな腹一杯状態で山を歩くなんて初体験だ”と、突き出た腹を締め上げて、凛々しくハーネス(滑落防止のための腰ベルト)を巻き、アイゼンもつけて、サングラスをかける。赤いメットもかぶって、アンザイレン(ロープでつなぎあうこと)して、さあ再出発だ。
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4.事故!
出てすぐテト・ルッソー氷河を横切る。距離は短い尾根裾の雪渓だが、落石がゴロゴロしている、いやなところだ。下山時に、ジョンルイ君がここで立ち止まっている登山者に早く通り過ぎるように注意していた。雪渓を過ぎると、一つ、大きくないがガラガラの谷をトラバースした。落石の名所らしかった。右手は結構、切れていて、ロープが渡してあった。ジョンルイはこれにカラビナを掛けて歩いていたことに、トラバースが終わる頃に気がついた。特に危険を感じない道だったので、それは、ほとんど、余裕を持って遊んでいるような仕草にもみえた。
小屋から出て約30分、トラバースを終えると、グーテ小屋に突き上げるどす黒い岩尾根、パイヨ岩稜に取りつく。いよいよ本格的な登りが始まる。標高差は600m。まづ最初は切り返すように左上方向に進む。ガイドの後について、尾根裾の岩を、へずるように左方向へ巻こうとした。その瞬間だった。
ジョンルイが何かを叫んだ。私に何かを言ったようにも聞こえた。落石にしては、せっぱ詰まった響きがあるように感じた。反射的に、“大きい落石っ”と思って、岩に張り付いた。ドサッという物音を聞いたような気がしたのはそれと同時だった。0.03秒間、視野を黒い物がかすめた。“通り過ぎた”という情報処理がされる前に私の首は反射的に左下方向に回転し、“落石”を目が追った。しかし、目に映ったものは石ではなかった。それは、地面に叩きつけられた、のたうつ人間、男、であった。それを認識するのに0.1秒かかった。次の瞬間、その黒い塊はマット体操のように、4、5回、前転しながら下へずり落ちて行った。ザックが体から分離して、足下へ飛んで来た。回転はゆるくなったり、早くなったりして、止りそうに見えて、止まらなかった。頭が45度くらい下向きになった。そこは少し岩棚になっていた。止るとしたら、もう、そこしかなかった。ジョンルイが「ストーップ!」と叫んだ。
顔がはっきり見えた。目と目を見交わしたような気がした。それは、アドレナリンが一気に放出された、恐怖に満ちた表情ではなかった。自分に何が起こったか分らない、むしろ呆然とした顔だった。声は一切出さなかった。叫ぶことは余裕がある行為なのかもしれない。彼の目に映った私の姿は、末期の網膜に映った像の一つに過ぎなかったのだろうか・・・。
その体は回転しながら丁寧に岩棚をなぞるように越え、次の瞬間私の視界から全く消えてしまった。その先はざっくり落ちていて、数百m下の谷底の雪渓まで止りそうも無い。私の視線は転じて、対岸のトラバースに入る前の人々の視線を執拗に追った。そこからはもっと谷へ下方の展望がある筈だった。大分の4人組が見えた。彼女たちの視線を鏡にして、さらに下方向の展望を追った。しかし、彼女たちの視線はすぐに緊張感を失って弛緩した。滑落者の姿はすぐ見えなくなってしまったようだ。人々は、一層、身を岩にかじりつかせ、そのまま何一つ動かなくなった。谷中が凍りついてしまったようだった。私たちのすぐ後の、トラバースに立っていたカップルの男は、俯いている女の肩を抱いたまま動かなかった。それは今、目前で起きたことを、記憶から消去してあげる仕草にみえた。
ジョンルイが、谷向こうの尾根の突端に見えるテト・ルッソー小屋へ向かって、口笛を吹きならして、「レスキュー!、レスキュー!」と叫んだ。鋭い口笛が静まりかえった谷の空気を引き裂いて響いた。レストランから人が出てきたようだった。また、この叫びは人々に我を呼び戻させる警笛になったようだった。
ジョンルイは私の方を振返って、「リヒラーックス、リヒラーックス」と、すさまじいフランス語なまりで、リラックスするように呼びかけた。私は、自分の足がすくむだろうなと思った。しかし、なぜか、血の引く思いもなく、体も強ばらない感じだった。この落ち着きはなんだろうと思った。それは、自分の立っている足場がさほど悪くなかったこともあるだろう。修羅場では妙に明晰に物事を観察したくなる性癖もあるかもしれない。しかし、もっとも大きな理由は、目の前で起こった惨劇に、半信半疑だったことだと思う。“自分の眼前でそのようなことが起こるはずがない”、という、現実感の欠落であろう。
“ジョンルイ君はレスキュー隊員であり、彼はレスキューを優先させて、谷底へと向かい、そして『私のモンブラン』もこれで終わりかな”、とも思った。しかし、ジョンルイは私が動揺をさほど来していないと判断したのか、それ以上の言葉を重ねてくるということはなく、さりげなく登山行動を再開した。ガイド業が優先されることがわかった。
岩に身を寄せてかじりついていた人々は、何事もなかったかのように、それぞれの行動を再開し、谷間に動きが戻ってきた。最初の岩を巻くと、すぐの上に男性1名、女性2名の、俯いていて動こうとしない一行がいた。滑落した人の仲間であったとしても、どのような言葉が掛けられただろう。仲間にしては、無表情に過ぎるような感じもし、まだ動揺していて足がすくんでいるだけの人達ともみえた。しかし、後に通った大分隊の話によれば、「ピエール、ピエールと呼んでいるグループがいたわね」とのことで、この一行が、滑落者の仲間だったようである。滑落者はアンザイレンせずに、下山してきて、もうあと少しで尾根の取り付きという何でもない地点で、ふと足をもつらせてしまったのであろう。
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5.パイヨ岩稜
岩尾根は岩と砂利の所々に氷と雪が交じり、アイゼンでは歩きにくかった。ジョンルイ君の左足のアイゼンの止め具の調子が悪く、カパカパ外れていた。相当使い込んでいる代物にみえた。そのうち、手にぶら下げて歩き始めた。大分隊はここはアイゼンなしで歩いたとのことだった。
傾斜が少しゆるくなっている所で、休憩となった。「only
drink (飲むだけよ)」と言われる。ジョンルイ君はザックからナイフとテープを取り出して、ワンタッチアイゼンの前の止め具にテープを巻きつけて、きつくなるように細工した。いかにも応急処置だったが、その後、はずれることはなかった。しかし、彼はここでナイフを置き忘れてしまい、帰途、探したが見つからなかった。さすがのガイドも、間近に起こった転落事故の直後で、多少の動揺があったのかもしれない。
見上げると、尾根を突き上げた辺りに小屋らしいものがみえた。グーテ小屋だろう。近いようにも遠いようにも見えて、どの程度の時間がかかるのか、よくわからなかった。マッターホルンのベルベデーレ(ヘルンリ)小屋に行く時に、何度も見上げ過ぎて疲れてしまったような気がするので、なるべく顔を上げないで行こうと決める。ジョンルイとはレストランではさかんに雑談したが、これ以降は、お互い、無口であった。
ヘリコプターの音がした。“あれ”から1時間位経っていた。振返って、旋回しているのか、着陸したのか、どのような行動を取るのか、見たいような気がしたが、ジョンルイの歩調はそのような余裕を与えなかった。いづれにしても、谷底までは望むことはできなかっただろう。
傾斜の強い尾根が続く。所々で降りる人を優先させ、待ったりしながら登った。足掛りの難しそうな所2、3カ所で、突き刺してあった鉄棒に足掛かりを求めた。尾根の背をまたぐような感じで身を空中に突出す場所もあり、高度感を感じた。所々にロープが張り渡してあり、掴んで歩くと楽であった。腕を上の方に伸ばすとガイドや下山者のアイゼンに踏まれそうになり、あわてて手の位置をずらしたこともあり、それ以後は慎重に手を置くようになった。高度が増すと雪ののっている箇所も多くなった感じで、“降りは怖そうだな”と思った。
ジョンルイ君はナイフを忘れた休み以後は、立ったままお茶を飲む程度の休みを2回許してくれたが、いよいよ傾斜がきつくなってくる頃から、休もうとする気配すらみせなくなった。「あと、30分」とジョンルイがいった時は、“マジカヨー”とゲッソリする思いがした。岩の窪みに、ここかしこに小さな水晶の結晶を光らせた小石の群れを発見し、思わず手が伸びそうだったが、なんとか我慢した。“下山時には忘れずに水晶を持ち帰るぞ”と決心し、ジョンルイに、「ここに、水晶が沢山あるから忘れないでね」と話しかけて、休み時間を稼いだ。
一層、傾斜はきつくなり、禁断の視線を小屋にさまよわせては時間を推し量ったが、なかなか近付かなかった。1呼吸に1歩となる。4呼吸に1歩だったワスカラン(ペルー、6655m)ほどではないなと思う。順番待ちは恰好の休みとなる。今回の山行の3週間前に、たまたま富士山に一人で行き、あまり休まずに登ってしまったことがあり、結果的にこれが良い訓練になったと思った。しかし、ついに「three
minutes rest (3分間休むのだ)」といって、立ったまま呼吸を整えさせてもらった。
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6.グーテ小屋にて
14:00、グーテ小屋に着いた。3820m。登山鉄道の終点から小屋までは、富士山5合目から頂上までの標高差にほぼ相当する。テト・ルッソーからは約2時間半で、ガイドブックには2〜3時間になっているが、一応、「グッド
タイム」と、お世辞の言葉を賜る。ブタもおだてりゃ木に登る。象もおだてりゃ空を飛ぶ。“あしたもガンバルど”という気分になる。
グーテ小屋はエーギュ・デュ・グーテ北峰のわずかに下の、猫の額ほどの所にある、想像以上に小作りのヒュッテだった。小屋の前側の小さなスペースが通路になっていて、手すりがかろうじて人々を断崖から滑り落ちないように隔てていた。
中に入って右手に上がると40畳ほどの食堂になっていて、3、40人ほどの登山者がワインなどを飲みながら寛いでいた。すぐ、ジョンルイ君が野菜スープを2人前テーブルへ運んできてくれた。何か話そうとすると、少しロレツが回らないような感じがした。やはり、冷えていたのだろうか。スープが暖かかった。
「もうさっきのヘリコプターは、転落した人を病院へ運んだのでしょうか?」と、ここで初めて、転落事故のことを話題にした。ジョンルイ君は、「ノン,デッド(dead、死んだ)」と、にべもなく断定した。内心予想していた事ではあったが、別の答えを期待していたような気がした。
ちなみに、ジョンルイは経験最高高度はモンブランの4807m、休みには
“山はまっぴら”らしく、専ら、海、それもインドネシア、バリ、プエルトリコ、ハワイなどとのこと。また、なかなかの冒険野郎なのか、フランス人の若い男性には稀ではないのか、サハラを10日間でバイクで横断したこともあるとのことであった。
背中合せに、60歳位の日本人女性が一人でお茶を飲んでいたので、話し掛けてみる。それまでは、私に気がつかなかったのか、驚いたように振返った。千葉の方で、木本さんというガイドに案内されて、昨日、夫、友人達と小屋まで登ってきたが、自分は高山病で体調が悪く、頂上へと向かった一行を待っているとのことだった。夕方15時頃に、男女4,5名が戻って来た。平均年齢62歳で、小屋からのアタックに12時間かかったとのこと。感涙にむせんでいるようだった。
16:00くらいまで、食堂で大分の一行と話していた。そのほかの日本人パーテイーとしては、群馬岳連からの男3人組と30歳代くらいの夫婦がいたようだった。
江藤氏は、「フランス山岳会の巾の効くバッジを付けている」(?)ので、小屋の人に一目置かれているということであった。彼によれば、モンブラン山域では、年間50例位の死亡事故が起こるとのことであり、パイネ岩稜では1桁後半の死亡者が出るらしかった。岩稜の上の方では落石も多いらしい。彼等は17日間の個人ツアーで、すでにグリンデルワルトでメンヒに登り、4000m程度の高所順応を済ませて来ていた。また、私と同様に、マッターホルンから流れて来たことも分り、お互いにベルベデーレ(ヘルンリ)小屋にいたことを思いだした。ミネラルウオーターは1.5lで30フラン、約650円。高所順応の為もあり水分摂取を心掛けていたが、話していると、一段と早くペットボトルが空になってしまう。
ガイドとその同行者は優先的に小屋のベッドが割り振られる。22人入る部屋の2段ベッドの端を割り振られた。2人でマット1.5人分のスペースに寝るようにとのことである。ジョンルイ君は窓際で、私が大分隊と話している間に一寝入りした様だった。私も夕食まで寝ようと横になったが、寝つけなかった。
小屋は満杯状態と下界でも聞いてきたが、食堂は夕方が近付くにつれて増加する登山者でごった返し始めた。食堂の窓口の所で、英語を話すおじさんと、スタッフが殺気立って口喧嘩を始めた。スタッフが、「Come
with me to Chamonix!(俺とシャモニーへ降りろ!)」などと叫んでいる。ザワメキと酸欠で頭が痛くなりそうだ。収容人数100人程度の小屋だが、今夜は150人は入るとのこと。多い時は250人くらいのこともあるとか。ジョンルイ君は、「予約なしで来てしまう人が多過ぎる」といっていた。予約のない人や遅く到着した人は、食堂にマットを敷いて寝るそうである。大分隊はそうするそうで、何やら私の気が引ける気がしたが、後で聞いたところ、ベッドが確保できたとのことであった。
夕食は17:00〜18:00、スープ、鳥肉とマカロニの合せ物、美味なプリンのデザートまで付いているので感激した。ジョンルイ君はまめまめしくよそってくれ、「これだけの量を食べなければ頂上まで行けない」などといい、「高所でこんな食べるのは初めて」というくらい、食べさせられてしまった。
ヨーロッパの山小屋では、寝室は寝るだけの場所であり、早寝をする人もあるので、話は食堂でするように定められている。したがって、日本の山部屋のようなつもりでベッドで私語を交わすと、ブーイングを受けたり、鋭い非友好的な視線を送られていることに気が着くことがある。日本人がヨーロッパの山小屋に進出して行くにあたって、心しなければならない点である。
私の部屋は日本人が多く、夕方になって部屋へ入ってきた関西方面の6,7人くらいのグループが、かしがましかった。私の隣はドイツ人男性グループで、ヒソヒソと、「Ich
liebe dich(愛しているわよん)」などと、冗談を言い合って、クスクス笑っていたが、早々に熟睡してしまったのか、はたまたドイツ人はフランス人よりおとなしいのか、ブーイングされなかった。なお、いやでも左脳で処理されてしまう関西弁によれば、よく喋るリーダーは一番若く、48歳、職業ガイドではなく、今回が2回目のモンブランらしかった。「エーデルワイスの沢山咲いている秘密の場所を知っている」、「24日まであるので、マッターホルンにも登る」とか、「お宅らはいくらで来たの?」とK隊に尋ね、「エー、自分は33万円で連れてきた」と、自慢気であった。
木本隊は年配の方々で、また、登頂して来て疲れてしまったのか、下の段に横になっていたが、静かだった。私の荷物の小ささをみて驚いていた。私は、彼等の荷の大きさに驚いた。カメラも、非常に重く、立派なものを持っているようだった。私は前日に、カメラは一眼レフは駄目で、コンパクトのみという、アドバイスを受け、それに従っていた。衣類としては、身を包んでいるクロロファイバーの上下の下着とオーロンのTシャツ、フリース、毛のズボン、それにザックの中に夏物のゴアテックスの上下、それがすべてで、ウールのブラウスはダメといわれ置いてきていた。帽子も寒冷用の毛製のみで、日除け帽は持っていなかった。ストックは持たず、ピッケルだけであったが、グーテ小屋からの登りはストックがあった方が楽だったかもしれない。山行に何を優先させるかという問題もあり、良いカメラを持ちたい気持ちは重々わかるけれど、荷物は極力抑える努力が必要であろう。
食事を終えてからベッドでアタック用の荷造りをした。メットはいらないとのこと。メットの中に小屋に置いて行くものを収める。ジョンルイ君は少し不機嫌そうにみえたが、頭痛がするとのことで、鎮痛剤を飲んでいた。私に頭痛がないか尋ね、ないと答えると怪訝そうだったので、その代わりに、靴ずれ防止に踵にテープを貼って貰った。
トイレは別棟にある。外に出ると、晴れていて、まだまだ明るい。風が流れ、気持ちが良い。先ほどまでは時折、ガスが流れて、左手のビオナッセーの姿をぼやけさせたり、隠したりしていたが、黄昏とともに、すっかりガスがあがって、白い姿がくっきりと現れていた。稜線は絵画的で秀麗な線を描いている。小屋に向いている北面はしみ一つない画布のように真っ白で、谷へ真っ直ぐ裾を垂らしている。落日が近付くにつれ、北面は金色に染って行く。山小屋の壁も、テカテカと照りは映えて眩しい。人影がそのまま黒く焼きついてしまうかのようだ。明日は晴れるだろう。
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7.アタック
ゴソゴソする物音で眼が覚めてしまう。窓の外は真っ暗だ。ジョンルイ君がむっくりと起上がり、そのまま出て行ってしまった。彼は身繕いというものが不要の人のようだった。それを機に、私も起きてしまう。1:50だ。2:00、マットの片付けられた食堂で、ジョンルイ君が、人々の間を縫ってすばやく運んできてくれた紅茶とパンの朝食をとる。トイレを済ませれば、もう出発だ。
外は意外と寒くない。風もないようだ。慌ただしく身繕いをする人に混じって準備をする。上半身にフリースを着るが、ゴアテックスはズボンのみ付ける。ジョンルイ君も、今朝はさすがにタイツの上にオーバーズボンを履いている。
2:32 出発。小屋の裏手の斜面をあがると尾根の末端に出るらしい。突然、夜空が頭上に開ける。星空だ。天気だぞ。人々が暗闇にヘッドランプをそれぞれに光らせて、せわしなく次々と出発していく。行く手に目を転じれば、はるかかなたに壁の様にそそりたつ斜面に光の一本の直線が輝いていた。それは高みへ、天へと向かう星の列のようであった。星ではなくヘッドランプの列であることを納得するために、しばし、目を凝らさねばならなかった。夜空にも丸く空を画する白い山容は覆い被さるように、ひたすら巨大であった。それでいて、それは決して頂上ではないことも、私は漠然と察知していた。我が蟻の歩みで一歩一歩で稼いで行かねばならない高さを考え、憂鬱な覚悟を決めた。
歩き始めは調子が出ない。特に起きてあまり時間がたっていないうちに出発すると低血圧の欠点がモロに出る気がする。ええい、朝っぱらから結構な登りじゃないか。ジョンルイ君が、“どうしたの?”というように振返る。「ジャパニーズパワー、ゴー、ゴーゴー」とハッパをかけられる。この人は急かす時は動詞を3回繰り返すという癖がある。せっかちな人間の特徴である。
“モンブランの頂上は4807mだぜ、自分にはハードでは無いはずだぜ”と、言い聞かせる。エルブルース(ロシア、5642m)の時の様に、“自分のペースをくずしてしまって登れなくなるのではないか”という危機感は薄い。エルブルースでは何度か口にした、“ゴー・モア・スロウリー(もっとゆっくり)”という言葉は口にせず、ついていく。大体、あの時はガイドのピッチが速過ぎたしなあ。ブリザードの中、きつかったなー。それでも、ゆっくり歩くようにお願いし始めたのは3時間近く歩いてからだったしなー。今日はまだまだ持つぜ。
暗闇の中で、ヘッドランプの黄色いスポットライトだけが明るい。灯りは雪面に投影されて、せわしくなく揺れ動きつつ、斜面の形状に応じた大小様々な楕円を描く。それを見詰めながら単調な登りを続けているうちに、ある種の生理的に特殊な自己暗示的な世界に入ってしまうようだ。妙なことだが、密室の中の感じに近いかもしれない。過去の同様な状態の時の記憶が蘇り、自らの内で、無言の独り言が繰り返される。
傾斜がきつくなると、ジョンルイは体を右向きにして蟹登りを始めた。右足を一段上にあげて、次に左足を右足の前回して右足の一段上に出し、それから右足を後から上に出すという足運びだ。酔払いの千鳥足に似ている。「ルックアットマイレッグス(僕の足をごらんなさい)」とまねするようにいう。私は蟹登りをする場合、右腰を上にした方が楽で長持ちすることを発見した。左腰が上になると、すぐ疲れてしまう。だから、勝手に向きを変えていたので、ジョンルイが左右の向きを代えるタイミングにあわなくて困った。下界に降りてから、自分はいつも右足から歩き始めていることに気が付いた。右足が出て、初めて左足が付いて出るという感じだ。左足先行筋(?)が体についていづ、歩き辛いのだろう。歩行癖というものは、ある程度は修正しておく必要があるのだろう。
4:14 短いながらも初めて休憩をとった。夜目にも広々とした雪原で、4362mのドーム、Dome
du Gouterの頂上らしい。ここでゴアテックスの上着を着込む。テルモスのお茶を飲み、チューブゼリーや飴を口にした。
ドームから少し下ったところがコル・ド・ドーム
Col du Dome だったらしい。ここでグランミュレ小屋からのルートが合流する。次の休みは比較的早く、4:50、ヴァロー小屋のある小高い所だ。ジョンルイ君がアンザンレンしたロープの端で用をたしていた。生理タイムでもあった様だ。ヴァロー小屋は、中は覗かなかったが、一見バラック風で、とても有名な小屋には見受けられない。1987年の日本からの癌患者の生きがい療法登山の折には避難小屋として、重要な役目を果たしている。しかし、ガイドブックによると、「ヴァロー小屋に安らぎを期待してはならない。緊急の場合に生き延びるための箱といったところで、こんなにみじめに放置された小屋もないだろう」と実も蓋もない。それでも、「正確な場所を頭に入れておくと、いざというときの命綱になる。吹雪で小屋がみつけられず、遠くないところで凍死した人もいる」と、最後にとってつけたように少しだけ持上げている。それは、自分がヴァロー小屋に救われる可能性が0ではないことに、急に気が付いたためであろう。
真っ暗な中を帰って行くパーティーと擦れ違った。彼等は頂上で御来光を迎えることもなく、つまり朝日に照されたアルプスの光景を目にせずに、ただひたすら先を急ぐのだろうか。モンブランでは天候の急変が稀ではなく、その場合には一般ルートでも地獄と化すそうであり、彼等が先を急ぐのも、そのような理由があるためかもしれない。しかし、縁日には綿飴、夜空には花火、お墓にはお線香、そして花も嵐も踏み越えて、お山の上では御来光といったセンスを持つ我等日本人には、もったいないと思われる登り方ではある。風流を解さない哀しい奴らだ。
足の指先が冷えてきた。日の出までにわずかに時間を残している時に特有の寒さだ。これはプラスチックブーツでは感じない冷えだと思った。しかし、それ以上には冷えてこなかった。5〜6000mクラスの山とは標高が違うせいであろう。シャモニーで急遽購入したスポルテイバであったが、夏のヨーロッパアルプスならば、天候さえ良ければこのような軽い革靴で間に合いそうだ。
地平線が赤みを増していた。頂上で日の出が迎えられるだろうと思った。キナバルの時の様になるかな。道はボス山稜の痩せ尾根の急な登りになっていた。しかし、頂上かと思ったピークは、悪い予感、それは人が集っていないという事実に基づいた推測だったが、的中し、手前のグランド・ボス4513mであり、その先のリッジの登りを一踏ん張りしなければならなかった。しかしさらに、そこもまた、プテイ・ボスという、4547mのピークなのであった。そこを越えて、いよいよ最後の登りにかかった時に、パーと光が左手、東の空に放たれたのを感じた。暖かい光の矢が私にも放射され、体の中に浸透して来るようだった。世界がどんどん明るくなって行った。
細いリッジに人々が影となって集っていた。私もその光の中へ立っていた。ほとんど真横から刺す光を、思う存分、体の前面に浴びた。日の出から7、8分経っていたのだろうか。ポケットからバロメータ(気圧高度計)を取りだして時間を見ようとすると、ジョンルイが、「今しなければならないことはバロメータを見ることではなく、水を飲むことである」と叫んだ。やれやれ、心配性のガイドにバロメータに時計機能があることも教えておくのだった。いづれにせよ、6:43であった。ガイドブックによれば、グーテ小屋から4〜5時間ということであり、4時間強、私にしては上出来である。
頂上は細いリッジ上にあり、ほとんどルートのようだ。あれだけの山塊のモンブランの頂上がこれだけの痩せ尾根上にあるということは予想外だ。ルート上に休んでいるようで、落ち着かない感じがする。背側を振返れば、モンブランが自らの姿を地球に投影していた。鋭いピークは富士山の影の様だ。
ジョンルイ君が写真を撮ってくれると言う。「ああ、違う、そのアングルをもうちょと下向きに!」と、叫んでしまう。私は、こと、カメラのアングルについては、ちと、うるさくて、見知らぬ人にシャッターを押すように頼んでも、吠えまくってしまうのだ。特に、山の頂上で足下の山なみが無視されて、空の中に自分が浮いている写真を見る時の失望感・・・。すると、ジョンルイ君は、「自分のカメラの腕前はプロ級なのだー」と、プライドをむき出しにして言い返してきた。あわや、美意識を巡る日仏決戦という様相になるが、この際、私は地元民に花を持たせてあげるという謙虚さと大人らしさを発揮して、身を引いたのだった。
東には逆光の中にアルプスの山なみが、濃淡織り混ぜて、重畳と重なっていた。モンブランはアルプスの西の端にあるので、アルプスの全容が朝日の中に、一望されるのだ。しかし、眩し過ぎて目を凝らすことができない。手をかざして、目をシバシバと薄目にしながら、盗み見る感じだ。「マッターホルンはどこ」と、天空高く抜きん出て聳えたつ岩峰を探してみたが、イメージ通りのピークが見つからない。ジョンルイがやや左手に指さしたのは、幾重にも重なる山の間の角(つの)といった感じの、むしろ変哲のないピークだった。モンブランの高さを思い知る。その右手の、一際大きい山塊がモンブランにつぐヨーロッパ第2の高峰、アルプスの女王、モンテーローザだ。ツエルマットとは左右逆にみえるらしい。10個近いピークを連ねる山塊は一際巨大である。マリーアントワネットの優美な姿態というよりは、ビクトリア女王の豪壮な軍艦のように浮かんでいる。そして、「グランドジョラスがすぐ左手の黒い塊だ」というが、これは正直言って、どれかよく分らなかった。
ウインパーはこう記している。「モンブラン山頂からのパノラマには、ひどく不満が残る。ヨーロッパはすべて眼下にある。見上げるものがなく、目の休まる一点というものがない。これ以上望むものがない人間の持つ不満を覚える。もう努力の必要がなく、当然満たされない気分になる」。何たる鼻白む印象であろうか。何とひねくれた人間性であろうか。かって、富士山に登って、このような感想を記した日本人がいただろうか? まして、貴重な休暇と、なけなしの体力と、高額の費用を注ぎ込んで山頂にたどり着いた我が身においておや。しかし、ある意味で人間性の洞察を含んでおり、また、民俗性の違いを示しており興味深い。
ジョンルイ君のザックはロープを取り出してしまった後はペシャンコであったが、その小さなザックから奇跡か魔法のようにピッケルを取り出した。ピッケルを持っていることを初めて知って、ほっとする。ついでに、私のザックからゴソゴソと親切にも食料を取り出してくれた。彼は、どうも、食料と名のつくものを何も持っていなかった様子で、ゼリーや飴を分けてあげた。ストックをザックに刺して、さあ、もう、下山の時間だ。
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8.下山
7時に下山を開始する。切れたったボス山稜では擦れ違いに苦労する。下山者はどちらかの側の斜面に足場を掘り起こし、そこに降り立って登る登山者をやり過ごすことになり、スリリングだ。時間が経てば、足場がサイドルートのように掘られて出来て、楽になるのだろうか。しばらく行くと、登ってくる大分隊と会ったので、エールを交換した。
右手は朝日の当たる東側の斜面、左手はまだ夜のとばりに暗く沈んでいる西側の斜面と、ボス山稜の背は明暗を左右でくっきりと分けている。その痩せ尾根に登山者が一列に連なっている。彼等の姿も半身づつ明暗に染められている。山稜が終わりに近付き、ヴァロー小屋の屋根が真近になる頃には、ルートは登る人に明渡され、下山者の多くは雪の斜面をノッシノッシと雪を蹴散らしながら降りることになる。
ドームを登り返して振返ると、モンブランの山容が一望に入り、写真の良いポイントになる。危険な場所を通過し、登り返しもなく、あとは下りのみ。ドームのまろやかさが、平和で穏やかな気持ちにさせる。満足感と安堵の気持ちがジッワッと湧いてくる。
ドームの下りでジョンルイが腰をおろすようにいうので、怪訝に思いつつそうすると、あたかも私を橇を引くように引きずりながら駆けおりた。ドームの斜面が終わると、南西へエーギュ・デュ・グーテへ幅広の雪稜をたどることになる。尾根筋にテントが数張、張られている。風の強そうな所で、御苦労様なことと、心底思ったことだった。
8:30、グーテ小屋に帰着した。数パーティーがすでに寛いでいた。スープを飲んで、行動食をつまむ。ヤレヤレ、10時位まで休憩かと思っていると、「9時に出発する」というではないか。ゴアテックスのブボンを脱いで身繕いをすると、出発時間になってしまった。
ジョンルイ君は益々絶好調になってしまった。水晶の小洞もいつしか通り過ぎてしまったようである。下山者はまだまばらだったが、千葉のシルバーK隊がアンザイレンしてゆっくり降りて行くのを、たちまち、追い越した。また、アンザイレンしていない30歳半ばの日本人のペアーも追い越してしまった。ペアーは翌日、チューリッヒ駅で見掛けたが、脇目もふらず、急ぐように去って行った。女性のザックには、ピンクのメットが下がっており、これはグーテ小屋に置き忘れてあって、私が神田さんに渡したブランドと同じであったが、知らぬ気であった。残念。
展望は眼前に大きく広がっていた。が、それを堪能できる余裕はなかった。“ヤバイな”という場所が数箇所あった。ジョンルイにストックを渡されたり、返したりしながら降りた。ピッチは早かったが、何とかジョンルイについて行けた。10:10にテト・ルッソーの小屋に着いたが、ゴアテックスの上着をぬいだだけで、すぐ出発した。
“右手へ雪渓をトラバースしたら、富士山道だわ”と思っていると、ジョンルイはテト・ルッソ−の小屋のすぐ脇の雪渓をまっすぐに降り始めた。登りとは異なるテト・ルッソー氷河のある谷へ降りるらしかった。
ジョンルイは、「雪渓の下りは、こんな風に、腰を落としてガニマタにだなー。ドナルドダックみたいな調子よ」といって、実際、ガニ股に歩きながら、「グアーグアー」と、ドナルドダックの鳴きまねをしてみせた。
雪渓はまもなく終わって、モレーンの、ガラガラと堆石した岩を踏みつけながら降りることになった。結構な斜度もあって、早くアイゼンをはずしたい気がした。一般ルートでないと、やはり歩きにくい。傾斜が一段落したところで、一休みとなった。ジョンルイが、「あなたは早くはないが、安定している(steady)ねー」といって、褒めて(?)くれた。
さらに下るとビオナッセーの谷に合流し、再び、雪渓となった。傾斜はさほどなく、雪も腐り加減なので、アイゼンはつけなかった。尻スキーをしたりして、ふざけながら降りた。随分降りたような気がして、“これは、ヒョットすると、麓まで降りてしまうのではなかろうか”と、不安になりかかった頃、右手に尾根裾を巻く登山道があらわれて、それに取り付いた。まともな、土の登山道になった。「Gare(駅)」と、ジョンルイが指さす方向を眺めれば、登山電車の終点らしき建物が下方にみえた。駅より下へ降りていた訳ではなかったことが判明して、ほっとした。
見上げるとビオナッセーの北壁がそびえている。日光がさんさんと降り注ぎ、雪渓がギラギラとテカっている。ジョンルイ君が、「こんなに天気が良くて、とても幸運だねー」と祝福してくれる。雨女にだって、晴れる日があるのだ。我が人生もかくあれかし。下界が近い夏山の雰囲気がしてくる。2張のテントがあった。登山者かハイカー達か。人があまり通らない道なのか、彼等は海岸にいるような、大胆な恰好をしている。美味しそうな匂いが漂ってくる。そろそろ昼飯の時間であることに気がつく。
「水晶をとりそこなってしまった」と、私が文句をいったせいか、ジョンルイがふと立ち止まり、指さした道端を見るとキラキラと光っていた。水晶の結晶だ。パイネ岩稜の登りで発見したものほど立派ではないが、土産の採集に励んだ。さすが、1786年に水晶採りのバルマと医師パカールによって初登頂された山だけある。
すると、ジョンルイが急に何かを思い出したように、私をせかし始めた。何やら、走り始めるではないか。「ジョッギング、ジョッギング」という。“ゲー、こんな所でジョギング!”と思いつつ、私も訳もわからず、走り始める。ステップの所でころんでしまう。標高2400mのジョギングは半端じゃない。“今回の山行で一番ハード”と思ってしまう。ふて腐れて駆けるのを止めて、お義理程度の早足にする。
11:25、駅にたどり着いた。11時30分出発の電車があるようだった。小綺麗な姿の観光客が溢れていて、華やかだ。彼等は夏晴れに恵まれた今日の、これから始まる行楽の一日の予感に、湧き立っているようだった。売店でアイスクリームを売っている気配があり、下山時恒例のアイスクリームにありつきたい気分だったが、電車の出発が迫っているようだったので、断念した。観光客の間をわってミニ電車に乗り込むと、2両目には誰もいなかった。1両目には、数人の観光客と登山者が乗っているようだった。
ジョンルイ君に日本人をガイドする機会は多いか尋ねてみた。「日本人は皆、モンブランという」と、「クエッ」と文末につけたいような調子でいわれてしまう。ちなみに、明日以降はシャモニーの岩場のロッククライミングのガイドの予定との事。私はグッドタイミングで、滑り込めたようだ。次の機会には別の山を目指してシャモニーへ来るとするか。
電車はゆっくりと、山裾を巻きながら降り始めた。途中、この登山電車を使わずに、どこまでか自力で下山していく、逞しい背をした登山者の姿が見られた。ロープウエイは人が溜まるとすぐ出してくれるらしい。たちまち駐車場におり立っていた。昨日ここを出発したとは、とても思えず、何日も経過したような気がする。車の荷台に、出発直前に私が一部取り分けた食料が残されていた。出発前に不安と緊張で、わずかでも荷を軽くしようと努力した、いじましい気分をまざまざと思い出した。そのような神経質さが報われたことに、あらためて幸せを感じた。
12:10にホテルに戻った。ジョンルイ君とお別れする。クリスマスにカードに写真を添えて送ったところ、返事を戴いた。返事をくれない人が多い中で、珍しく律儀なガイドだった。
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9.エピローグ
3時過ぎに旅行社へ行って、ガイド料の支払いを済ませた。神田さんが、「見たでしょう」と言いつつ、新聞を見せてくれた。事故の事だ。「見たも、見ないも、すぐ脇でドサッと」と答えながら新聞を手に取る。滑落者はユーゴ人で、やはり即死だったようだ。動乱の国から見えて、まさか、あのような所で命を落とすとは思っても居なかっただろう。気の毒なことであった。
その事故のこともあり、神田さんに、「モンブランは思ったより体力と技術のいる山でした」というと、「そうですよ。僕はアイガーより上だと思いますよ」といって、モンブランに登れずに、アイガーに登った女性の話をして下さった。もっとも、彼女の場合は、山慣れないでシャモニーに来て、慣れてからアイガーへ向かったらしかった。天候の状態にもよるだろう。いづれにせよ、モンブランというと富士山のように見なされているのは間違いであるという点で一致した。
夜9時頃、駅前通りに面したホテルランディックに大分隊を尋ねる。「入り口にメスナーの写真があるので、それを目安に来てね」との事だったが、見つからず、時間をくった。剥がされてしまうような紙をあてにしてはいけないという教訓である。ツエルマットのスーパーで買った“赤ワイン”をぶらさげて行くつもりだったが、出掛けにラベルをよく見てみたらソースだった。意気揚々と祝杯の“ワイン”の蓋を開けたらソースの匂いが立ち込めたなどという失態には至らずに済んだが、目論見とはずれて気落ちしてしまう。私はイベントの盛り上がりを愛する人なのだ。
ホテルランディックは山屋が愛用しているホテルのようで、大分隊は4人一部屋にいて、私を歓待してくれた。夕方4時頃に戻ったとのこと。スケジュール表などを戴く。よく練られた日程で、高所順応と観光の両方を満足させるものだった。行き当たりばったりの私とは何という違い。江藤氏のような方と一緒に来られたらベストであろう。
「あなたは若いから体は痛くないわよね」といいつつ、ロイド膏という小型の湿布シールをわけてくれた。さすが、婦長ご一行様、感謝しつつ大量に戴く。このロイド膏が、数日間、大変、役に立ったことを白状して、モンブランの記録を終えることとする。
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10.聞きかじり耳学問
1)ルートについて
一般に使われるルートは、このグーテ小屋からが圧倒的に多い。そのほかには、グーテ小屋の混雑を避けるために、モンブランの北にあるコスミック小屋から登るルートもある。コスミック小屋は数年前に焼失したが、1992年頃に建て直され、きれいとのことである。ただし、収容人数は60〜80人とグーテ小屋よりも小さく、予約を厳守するらしい。標高はグーテ小屋より200m低く、約3600mの所にある。
コスミックルートだと初日はシャモニーからロープウエイでエギュール・デュ・ミディまで行き、300mを下って、コスミック小屋へ入る。グーテ小屋ルートよりも初日は楽で、体力を温存できるし、睡眠時の標高が低いというメリットがある。しかし、翌日はモンブラン山頂までに3つのピークを越えなければならず、8時間かかり、きついようである。また、帰途のエギュール・デュ・ミディのロープウエイ乗り場への最後の300mの登り返しが、“効く”ということは、想像に余りある。
私より少し前に、雨宮節氏一行は、やはりマッターホルンを諦めてモンブランへ回ったが、グーテ小屋、コスミック小屋とも予約が取れず、エギュール・デュ・ミディのトンネルの中でビバーグし、このルートを往復したそうである。なお、エギュール・デュ・ミデイ駅ではビバーグを一応禁止しているようである。健脚揃いだったようで、、シャモニーには登頂日の16時頃戻れたということである。
また、帰途、シャモニーからジュネーブへ向かうバス停であった、単独行の大阪のお兄さん(若おじさん?)は、コスミック小屋で天候不良のために2泊させてもらった後、モンブランを越えてグーテ小屋へ降りた、つまり、縦走したという事であった。小屋間は約13時間かかったとのことである。なお、このお兄さんは、その後、1週間位、ツール・デュ・モンブランというモンブランの半周ハイキングコースも歩いてきたそうで、大人しそうに見えたけれどバイタリティのある方である。
2)ガイドについて
原則的にはマッターホルンはガイド1人に対して登山者を1人しかガイドできないのに対して、モンブランはガイド1人に対して2人まで案内することが出来る。2人で案内してもらう場合には、もう1人の調子が悪いと巻き添えを食って、登れない場合もある。したがって、1:1の方が登頂の確立は高くなる。ガイド料は2日で8万円(1996年夏)で、1:1の場合は1人で負担することになる。なお、実力のある登山者はガイドなしで登ることも、天候さえ良ければ難しくないと思われるが、フランスのガイド資格を持たない日本人による職業ガイドは公式には違法である。
3)マッターホルンとモンブランについて
マッターホルンとモンブランは最も日本人が登っているヨーロッパのピークとされ、2山を狙う登山者も多い。
マッターホルンのベストシーズンは7月25日から8月10日くらいで、それを過ぎると気温が下がって降雪があった場合に雪がとけにくくなり、チャンスが減少するという。日本のお盆休みを使うと、アタックは8月14,15日となり、少し遅いようである。この年の私の場合も降雪があり、4,5日は登れないとのことで下山した。しかし、翌日に私のガイドと登頂した日本人がいるという噂もあり、登山者の実力にも依るだろう。また、天候は年によって異なり、当たるも八卦、当たらぬも八卦と心得た方が良さそうである。1996年夏は、私のようなハイカークラスが登頂できた日は数日しかなかったようである。幸い、1998年夏に登頂できたが、それは8月14日であった。しかし、翌日にアッタクした者は駄目だったそうである。1999年には8月初旬に行ったパーティーが登れず、中旬に行ったパーティーが登れている。
私の友人の例は以下のようである。30歳、男性。1994年に17日間の個人旅行。最初にマッターホルンをトライしたが状態不良のために途中で下山し、モンブランに回って登頂。その後にもう一度マッターホルンに戻り、天候に恵まれて登頂。40歳代、女性。マッターホルンは1度目に登れたが、モンブランは天候不良でシャモニーで断念。42歳、男性。1997年モンブランへ行く。テトルッソーの先のトラバースで落石頻発のため、テトルッソーで仮眠。夜間、グーテ小屋へ向かった。その少し前に日本人女性が落石で怪我をして病院へ運ばれたという情報もあったが、詳細は不明である。文部卵は天候のみならず、クレバスの状況にも左右されるとの由である。グーテ小屋は吹雪になると、下山も出来ず、身動きがとれなくなる。また天候が変りやすく、特にドーム周辺でルートを見失いやすい。
4)手に入りやすいモンブラン関係の本
1)リヒャルト・ゲーデケ(島田荘平、島田洋子
訳):アルプス4000m峰登山ガイド、山と渓谷社、1997年
2)平尾彩子:モンブランに立つ−“生きがい療法”と勇気あるガン患者たちのドラマ、リヨン社、1988年
3)Michael R Kelsey:Guide
to the Worlds Mountains,Kelsey
Pub.,1990.
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付録:日程表
1996年8月10日
12:00 SQ997便 成田発 「風の旅行者」の案内が第1ターミナルと第2ターミナルを間違えていた。空港中を駆回り、一斗樽の汗を流す。ヨーロッパを諦めて、北海道の山を歩いている姿などを思い浮べる。舘内放送で飛出されて、何とか駆込み搭乗できた。高円寺「山幸」主催のツアー旅行の空席にはめこまれた切符で、行き帰り、同ツアー御一行さまと同行とわかる。バイト添乗員の鎌田氏を「風の旅行者」社員と間違えて、危うく文句を並べ立てるところであった。
17:45 シンガポール着 23:30 同発
旅行手配の依頼が1カ月前と遅く、シンガポール航空の南周りちおなってしまい、シンガポールで長い待合わせ時間があった。なるべく早目に手配して、北周りのフライトを使う方が日程的に楽で、登山にも有利と思われる。旅費は5〜8万円程度アップはするが。
8月11日
06:30 チューリッヒ着。空港に雨宮節氏が迎えに来ていた。友人の夫(吉野寛氏)の法事でお見かけしたことがあったが、挨拶するのは初めてだった。8:43 同発 10:13 ベルン駅で慌ただしくホームを変えて、電車を乗り換えた。山幸一行と一緒でなければ、乗れなかったかもしれない。検札で私のユーレイルパスのみセカンドクラスと判明し、30フラン追加する。雨宮氏の話では、「ずっと天候が悪く、ガイド達は“夏は終った”と言っている」とのこと。草原に樹木を点在させた庭園のような風景、背景に鋭い雪や間が輝き、その裾を飾るように岩壁の峰々。初めて目にする光景は新鮮は筈だが、写真でしばしば見る景色の様にも感じる。山道に差し掛かると、雲が低く、展望がなくなる。ベルナールオーバーランド方向は見えない。峠を越える時に、フェリーのように電車に車を積み込んでいる。 ブリッグでツェルマット行きの電車に乗り換える。
13:47 ツエルマット着。田村真一氏の迎えを受けて、山幸一行と別れてホテルロザーニアへ行く。なお、登頂旅行の場合は、天候に左右されてホテルに宿泊できる日が不定なので、2〜3星クラスのホテルをとることが多い。大分隊が宿泊したという駅前のBanhofホテルは登山者が多かった。なお、山幸隊の鎌田氏と1人の女性は、この日の夕刻にモンテローザの氷河小屋へ向かった。結局、小屋で1泊しただけで引き返してきたとのこと。モンテローザは小屋からのアタックに7時間かかるとのことにて、日本から30時間以上かけてツェルマットに到着した当日に小屋へ入って登頂を目指すのは難しかったと思われる。
12日
ブライトホルンバリエーションルートへトレーニング山行の予定であったが、天候不良のために中止。一人で11時にホテルを出て、高所順応を兼ねてロープウエイを乗り継いで、クラインマッターホルンへ行く。帰途フーリエでおりて、子供の写真を撮りつつ、ツュミット部落を経て戻る。
13日
午前リッフェルホルンにてガイドのウルツさんとトレーニング山行。
午後マッターホルンのヘルンリ(ベルベデール)小屋へ一人で入る。下山してきた日本人に、「上はベチャベチャで、ソルベイ小屋から皆、戻ってきているよ」といわれる。夕方遅くなって小屋に到着。シュバルツゼーから標高差1200mで、ちょっとばてる。午前のトレーニングも効いてしまった感じ。マターホルンにプラスチックブーツは向かない。
14日
早朝、降雪あり。下山と決定する。Aツアー社の参加メンバーの6名は予備日を使ってしまっているとのことにて、無念そう。折角だからと2名が、1時間程度、登ると言ってガイドと出かけて行った。個人で来ていて良かった。小屋でたまたま会った知人と下山し、14:00にツエルマットを出て、タクシーでシャモニーへ向かった。3時間近くかかり、3万円だった。大分隊は早目に諦めて下山し、11:00にはツエルマットを出て、電車を乗り継いで移動したとのこと。シャモニーで、運良く、下山してきたガイドの手配が出来、モンブランをギリギリの日程ながら目指せることになる。
15〜16日
モンブラン
17日
8:05のバスでジュネーブへ向かう。約2時間半で空港に到着。インターシティーという特急でチューリッヒへ。14:00頃到着。ホテルモンタナは駅の近くだったが、地図がわかりにくく、苦労する。道を訪ねてもいい加減に答える人あり、翻弄される。しかし、私の背腹両面ザック姿が難ぎそうにうつったのか、子連れの女性に、「お手伝いしましょうか?
Do you ned help ?」と、やさしい言葉をかけられる。チューリッヒの印象が3階級特進する。ライン河で市民水泳大会をしている。氷河の水か、少し白濁しているが、きれい。日本の都会の水と比較してしまう。路上スケートを、実用的にしている人が多い。チューリッヒ湖のそばで子供たちがスケートショーをしている。子供たちによる、貧乏な子供たちを救うためのボランテイア活動らしい。日本の子供たちよりも、社会に参加している感じがする。
18日
朝、チュリッヒ動物園にバスで行く。人をほとんどみかけなかった。ホテルに戻って、リムジンにて空港へ。搭乗券を見せてチェックイン。山幸一行と再会を喜び合う。土産にチョコレートを買いあさる。搭乗前にもう一度切符を見せるようにいわれるも、この時は何故か見つからず、一騒動起こす。後でザックの中から発見された。出発と帰国時にハップニングのある旅であった。
13:45 SQ343便 チュリッヒ発。
19日
SQ988便などを乗り継ぎ、シンガポール、台北経由、夕刻成田着。
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後記
3年振りに山行の紀録を記すことが出来ました。モンブランヘ
数人の知人が行くことになり、メモをお渡ししたいと思って書き
始めましたが、自らの記録という面も盛り込むことになり、長く
なってしまいました。下調べが十分でなく、誤りも有るかと思い
ます。御感想も御寄せ頂けましたら幸いです。
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力ムチャッカ半島への出発を明日に控え
筆者
1997年8月8日 |
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改定版への後書き
今回、改定版を出すにあたり、一部の誤植などの訂正にとどめました。
発行後、多くの方々に本書を読んで頂いたことを、大変嬉しく思います。
その後、私は幸いにも
1998年にマッターホルンとブライトホルン、
1999年にメンヒとユングフラウに登ることが出来ました。私の周囲にも、
マッターホルン、モンブランを始め、モンテローザやバイスホルンに登っ
た友人も出ており、山の国際化が進んだことを実感しております。本書が
そのような山の国際化の潮流に沿って、役立てていただけましたら本当に
幸いに思います。
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筆者
2001年6月30日 |
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幻の山ボケ社、沈黙を破って久方ぶりの山行記ここに刊行!
山ボケ社 既刊本
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1.キリマンジャロ登頂記(付−二上さん追悼) 1990年夏の記録
翌年5月、リーダー二上純一氏エベレストにて遭難
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2.中国旅行雑記 1991年末、孫悟空の生地峨媚山を訪れる
司馬遼太郎張りの格調高い四川省旅行記だが、発禁を勧める声もある
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3.パプアニューギニア紀行 1991年夏ウイルヘルム山登山時の記録
秘境タリ探訪記も含む
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4.イラン・デマバント山(5671m)登山時の酸素飽和度の変化
−動脈血酸素飽和度/脈拍比の体調予測指標としての可能性 1993
学術雑誌「登山医学」、「臨床モニター」の無許可複製版
「岳人」(1997年6月号)山本正嘉氏の論文に引用さる
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5.羊蹄山無駄話−行き掛けの駄賃に− 1994年秋札幌の学会後
スーツ姿に寝袋を抱えて札幌駅を出発した。その後の顛末は・・・
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