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キリマンジャロ登頂記
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キリマンジャロは標高約6000mを有するアフリカの最高峰であり、赤道直下タンザニアにある。頂上附近は万年雪におおわれており、キリマンジャロはスワヒリ語で白い山、あるいは、輝く山という意味であるという。今回、11日間のツア−で頂上を踏む機会を得たので報告する。
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1.アフリカへ
出発前にAツア−社のW氏から情報を仕入れる。「キリマンジャロは高山病との戦いです」ということである。成田空港から克誠堂へ校正原稿を投函。相変わらず慌ただしい出立。一行は男性8名、女性4名、プラスツアーリーダーH氏(添乗員)の計13名。男性はいずれも強者揃いという感じ。
ボンベイで仮眠程度の1泊をはさみ、キャセイパシフィックとエチオピア航空を乗継いで、2日がかりでキリマンジャロ国際空港へ到着。早速、ランドクルーザーでアリューシャの自然保護地区へ案内される。
ゲートの手前でイボイノシシの家族が沼地で寛いでいるのを目にする。ゲート脇の木立では、黒い胴のサルが何頭か、コントラストが印象的な白く長い尾をヒラヒラさせながら梢から梢へとびかって遊んでいる。シロクロコロブスという樹上性のオナガザルとのこと。次から次へと惜しげもなく動物の歓迎を受けている感じである。
保護地区内にはクレーター(火口原)の展望台があり、木立がポッカリあいた間から平らな草原が望める。それぞれに持参の望遠鏡を持出して太古から変らぬ、のどかな風景を覗きこむ。たちまち野牛の群が発見される。クレーターの向う側の果てに象がいるという声もあがったが、石のようにも見え、結論は出なかった。
保護地区の中央部には5本の指を広げたような形の湖があり、周囲を一周する。湖の中に扇状に木立を茂らせた島が一つ浮かんでおり、支那絵のようだ。人工的な建物というものが何もないことに圧倒され、東京からやってきた目には、ただただ緑の充溢がまぶしいばかりであった。
のどかな西日が差してきて大気が赤らむ中を、マントヒヒの大集団がお尻をこちらに向けてのんびりと帰って行く。車に脅えたり、気にする様子もないので、「おどき下さいませ」と、徐々に割って入って行く。デイックデイックというバンビのような小動物が草原を駆抜けて行く。最小の羊蹄目で、ウサギほどの大きさしかない。マメジカという種かもしれない(補遺1)。
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2.モメラロッジにて
アフリカにおける最初のホテル、モメラロッジは何もない草原のただ中に島のように存在していた。世界の最大の過密都市から到着した身には、最初は支えが何もないような不安感を感じる。日暮前に雲があがって、視界を遮るものの何もない原っぱの、想像よりはるかかなたに白い冠を戴いたアフリカの王者キリマンジャロが姿を現した。それは2つの点で私を圧倒させた。1つはその高さによって。もう1つは、その白さによって。
どこかハイキング気分の消えていなかった私はプレッシャーを感じて、いささか憂鬱な気分になる。樹林の中でフラフラと長い首を泳がせてこちらを眺めていた残照の中のキリンの、モゴモゴとアカシアの葉を食むその信じがたいほど長閑で優しい表情を思い浮べると、そんな顔を日がな眺めて休みを過した方がはるかに健康的に思え、自分が酔狂な人間に感じられた。
モメラロッジは木造平屋のメインの食堂やバーなどのメイン建物と、その前の草原に小さな小屋が散在する造りである。ロッジとはいってもメインハウスは欧米の避暑地にあるレストハウス風のなかなか立派な建物。到着すると、エントランスのテーブルに暖かい紅茶とコーヒーが用意されており、植民地風な歓待ぶりである。個室はごく普通の木造平屋の独立家屋と、マサイの家を模した白い土壁の大小の円筒が短い通路で結ばれているタイプがあり、希望通り後者に振り当てられる。
Hさんと私の部屋は一番はずれにあった。草原の中の小道をたどっていくと、すぐそばの草原のへりに、くっきりと円形をした光がいた。「月が上がるところなんだなアー」と独り言の様につぶやきながら部屋の木扉を開けた。しばらくして何か変だと気がついた。あれは、月ではない。月があんなに大きい筈がない。沈む太陽ではないか! しかし、沈む直前の太陽が、あのように密かに隣人のようにそばにいて、周囲を染め上げもせずに、一人冷やかに、宙に佇ずんでいて良いものだろうか?
部屋の内部は清潔で簡素だった。天井は褐色のバナナの皮で拭かれており、床はコンクリート打ちで夜は冷えそうだ。それにしても、寒いところだ。
夜は寝袋を出して眠ろう。木を惜しげもなく使った棚兼ナイトテーブルの上にアフリカ民芸調のスタンドがよくマッチしている。
夕食のために外にでると、草原は漆黒の闇に転じていた。夜がこのように暗いものだということを久しぶりに思い出す。懐中電燈を取りに戻り、メインハウスにある食堂に向う。きれいに身じまいした黒人のボーイに「メインデッシュはビーフ、チキン、ポーク?」と尋ねられる。欧米人はどこへいっても同じものを食べようとし、新興旅行族の日本人も巻添えを食う。
食後、明日からお世話になるガイド頭のニコスが紹介される。真黒な顔が食堂の暗い照明の中に没している。「キリマンジャロはゆっくり登れば必ず頂上に行けます」との言葉に頼もしさと安堵を感じる。日本の歌を歌いますとのことに耳を峙てたが、テーブルの端と端だったせいかよくきこえなかった。人づてに聞くと“ショジョ寺の狸”らしいとのことだった。(補遺2)
ホテルの受け付けでドルをシリングに交換する。交換の手続きに一人10分位かかるので、時間差が必要である。タンザニアはドルの闇交換と紙幣の海外持出しが禁じられており、その為もあってか、交換のための書類書が非能率で手間がやたらかかり、プロがやっている仕事とはとても思えない。交換を予定している場合はそれなりの時間を見込んでおく必要がありそうだ。能率という至上原理の支配している日本とは別の時間系が支配していることを思い知らされる。10ドル、20ドルがフワフワにふくれあっがった汚れたお札の束となり、臆劫でも一応かぞえてみると足りない。不足を指摘するとと、謝るでもなく当然のように不足分を出してくる。
部屋で下界にデポしていく荷物(スーツケース)、ポーターに背負ってもらう中型のザック、自分で持つ小型のザックとポシェットに仕分けをする。
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3.キリマンジャロ登山口マラングゲイトへ
翌朝、6:00。日の出前の薄明に霧が深く、草原の外灯が乳色に滲む。遠い天空に小さく一点の月。夜があけるとメルー山が目前に茶色の岩肌を朝日に輝かせながら聳えている。きれいな三角錐をした、4567mの独立峰である。キリマンジャロの次にタンザニアを代表する山でもある。日本にあれば、さぞやというところだが、いかんせん、そばに悪すぎるのがいる。ドラマ性に欠ける。気弱になっている私がリーダーにメルー山について尋ねる。すると、「メルー山に登ってどうするんですか、ハイキングでもするんですか?」と見透かされたように言い放たれ、叱咤激励される。メルー山に気の毒な気もするが、リーダーの志の高さが示された気もした。
8:00、マイクロバス2台に分乗して標高約1800mの登山口マラングゲイトへ向う。リーダーは当然のようにウイスキーを飲み始める。後で自ら、“アルコールツアーサービスの男”と称しているのを知る(私としては“アル中サービスツアー”の名称を勧めたい)。地平線を望むサバンナ帯をただ真っ直ぐに行く。リーダー曰く。「地平線でみえる距離は“せいぜい”50km程度。アジアの遊牧民は地平線のむこうから、馬に乗って人が来ると、まず、顔がみえたときに誰それだとわかる。それから、肩がみえて胴がみえる」。眉唾な気がしないでもないが、ほとんど超能力の楽しい世界である。
途中の町、モシでトイレを借りる。暗い食堂を抜けた中庭にあり、男女別である。コンクリの床に穴があいているJapanese styleだ。中庭で10代半ば位の男の子が二人、料理のごしらえか、オバケのように大きいエンドウ豆を剥いている。写真をとっても良いかとジェスチャーで示すと、拒否はしないが、嬉しいというそぶりも見せず、一人は顔をそむけている。後方の薄暗い部屋は台所のようだったが、チラッとのぞいていると、通り掛かった女の人がチョットシタ剣幕で何かをまくしたてた。“写真をとりたかったらお金を払え”ということらしかった。
白けた気分になって、通りをぶらついた。地面を鶏が徘徊し、犬が塀に寄りかかって居眠をしている。子供が手製の木の車をひいて遊んでいたが、カメラをみるとひどく警戒的に家の中にかけこんでしまった。パキスタンやボルネオとは様相が違うことが明らかになっていく。
市場でリーダーは600円也のサングラスを購入。「出掛けにバタバタしちゃって」忘れたとのことである。私はサングラスをかけないと高山病にかかりやすいとの事前情報により、2個持参していたが、顔幅が3倍違うとあっては貸借関係に至らず。リーダーは皆に見せびらかすように得意そうに掛けて見せたが、誰かが、「土方の親分みたいですよ」と一言、不用意にも言ってしまってからは二度と掛けている姿をみせなかった。N氏はリーダーのことを「丹羽哲郎に似てますね」といって、満更でもない気分にさせている様子であったが、私には、“その田吾作ドン版”という補足が必要に思えた。いずれにせよ、見かけによらずスタイリストなのかもしれない。
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4.マラングゲートにて
10:00前、ゲートに到着。派手な配色の登山服姿の白人が多く、華やいだ雰囲気だ。ポーターやガイドの黒人に混じって、子供、大人の野次馬も多い。服や履物は想像していたほど悲惨なものではなく、裸足の者はいない。登山事務所(登録小屋)の三角屋根の小屋の前にたむろする。杖があったほうが楽だというニコスの助言にしたがって、スキーのストックを10名位ーが借りる。4泊5日の山行で4,500円程度だ。私は母から借りた折畳み杖を持参していたので借りなかった。
三角屋根の前には中が真っ暗な売店がある。すぐカウンターになっていて客で一杯になってしまうが、その奥には6畳位の物置場があり、粗末な棚にコーラなどが山積みされている。小ビニールパッケージのウイスキーを所望するJさんの通訳をする。標高5000mに行ったら高く売るとのことで、10袋位購入した(あとで判明したところによると絵葉書やガイドブックを始め、この売店の値段ホテルの3-4倍と高かった)。
人の集る所、店あり、アルコールあり、酔っ払いありて喧嘩あり。日本に帰ったら手紙をくれという、アル中めいた初老の男あり。喧嘩騒ぎがあって、ニコスがそれを止めにはいったか、巻き込まれたということで、当事者達とどこかへ行ってしまった。
結局、随分、時間を過してからようやく出発の様相となる。リーダーの発表あり。「何だかニコスが急に行けなくなり、ガイドは4名、チーフガイドはマルキュウ」。“それは呼びやすい”と皆が湧くと、「しかし、“丸九”と呼ぶとちょっと困った顔をするので、本当はモウチョト違う名前かもしれない」と、アバウトな話で、実際、後で判明したところによると“メルキュ−リ”さんとのことであった。ポーターは各自の荷物に一人、それに共同装備や食料、水、薪などを運ぶ運ぶ役もあり、約20名。総勢で40名を越えるキャラバンとなる。自分はランチ、カメラ、テルモス(水筒)、雨具くらいしか背負わなくて済む。申し訳ないようだ。
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5.いざ、出発!(1日目:マンダラハットまで)
11:35、さあ、いよいよ4泊5日の山行へ出発だ。自分の相対的な力量の見当がつかない点が不安だが、こうなれば行くっきゃねえだろう。アタック基地となる標高4800mのキボハット小屋まで3日間、毎日1000mの高度を稼いで行くことになる。
しばらくは密林を切開いて作った平坦な道を行く。ジープが通れそうな広い道だ。このペースで1000mの高度が稼げるのか不安になるくらいだ。「ジャンボ(こんにちわ)」とか、「ポーレ、ポーレ(ゆっくり、ゆっくり)」とか、「ガンバ−ル」とポーターが挨拶していく。頭に1つ、背中に1つといった具合に荷を担ぎ、細身のしまった体に顎を引いて姿勢正しく、楽々と我々を追抜いていく。多人数のパーテイーの場合、ポーターは別段行動をともにする訳ではないようだが、2、3名の場合にはずっと付いているようで、擦れ違う外人の中にはまったく空身の人もいる。
小柄なポーターが私の荷物を頭にのせて追越していくのを見つけて、「ワテノヤ!」と叫んで、皆で一緒に写真を撮る。10代半ばかと思ったが、20歳とのことである。そう言われてみると、ガッチリした骨格をしている。「My name is Simonn」としっかり売込んでいく。この後も、ちょっとした行きがかりの関係の人がいちいち名前を教えてくれる場面に遭遇した。
よそのパーティーと行き交うたびに、「Hello !」とか、「Bon jour !」とか挨拶しては、当ったの、はずれたのと興じる。リ−ダ−氏は相当外国人慣れしていると見受けられる。ヨーロッパ系白人が多く、アメリカ人はほとんどいないか、相当少ないようだ。黒人登山者は全く見当らない。ヨーロッパ人は、日本人が東南アジアに出かけるような距離感で気軽に来られ、植民地であった馴染みがあるのだろう。また、汗水流して高い山に登るというのはアメリカ人には向かないのかもしれない。その中でも“頂上を踏まずんば止まず”という性癖の強いのがドイツ人と日本人らしい。リーダー氏は登頂の成否を尋ね、登頂者には、「Congratulations !」と祝福している。
1時間位歩いて、道が広くなっている所で、大きな木が枝を頭上に伸び広げている、小休止に恰好な場所があった。少し早い気がしたが、あまりにも恰好な場所と感じたのは皆の一致するところだったらしく、ランチとなる。ゲートで手渡されていたビニール袋の中身は、黄色い食パンのジャムサンド、茹で卵、バナナ、オレンジ。恐怖のワンパターンの始りとも知らず結構おいしくたいらげる。
昼食後小1時間も行くと、道幅がせまくなり、両側のジャングルの木立が道を覆い、山道らしくなる。いつの頃からか霧雨となり、ミルクの海のように視野がきかなくなっている。ぬかるんだ道を、木の根に気を付けながら足を運ぶ。
15:20、急に明るく、視野が開けたところがマンダラハット小屋だった。メインの食堂のある建物を中心に、バンガロ−のような三角屋根の小屋が10戸位、ジャングルに囲まれたなだらかな斜面の草原に散っている。バンガロ−は下に3人がコの字型に、正面のみ二段ベッドで、合計4人が一棟 と思ったら、同じ構造の部屋が壁を隔てて背中合せになっており、一棟8人を収容できるようになっていた。1時間位、食堂でビスケットをかじりつつ、teaを飲む。リーダー氏にさかんにteaを飲むことを勧められる。実際、何杯でも飲めそうだ。(補遺3)
女性4人に割り振られた小屋で荷物整理。二段ベットの上段が気にいってしまい、身が軽い(?)こともあって、以後、私の定位置となる。マットは敷いてあるが、湿気でグショとしている。とても寒い。タイツをはいて、ウールのシャツに着替えた。足の三里、三陰交、承山などに針をうち、てん温膏を足のツボ数カ所に貼る。
18:30夕食。各国語がいき交う食堂は結構な混雑で席取に苦慮する。食事はガイドが別棟で作って運んでくる。ニンジンとキャベツの野菜炒め、ジャガイモのバター炒め、ピラフ風のものが大皿にのっている(雀の手羽焼きのようなものがつく場合もあったが、これもそのうち恐怖のワンパターンと化し、私にはビスケットが主食になっていった)。就眠前の脈拍80/min、横になると70/min。夜間、さかんに喉が乾き枕元の水筒から水を飲む。雨の中を3回トイレに起きた。下界ではないことである。ちなみに、噂に聞く中国と異なりトイレには扉があり、中はやはりJapanese style。
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6.高原散策して富士山の高度を越えよう
(2日目:ホロンボハットまで)
6:00起床。夜間降り続いていた雨があがっていた。食堂の前の芝に朝霧が立ちこめ、周囲の密林帯が濃淡に煙っている。サルオガセを垂らした木立の下を早発ちのポ−タ−が頭に荷を載せて足早に下山していく。
6:30、ガイドがタライにお湯を入れて小屋に運んでくる。洗面用とのことで有難く頂戴はしたが、英国式というか、登山中には考えられないことである。幸い、この朝だけのことであった。
7:00朝食。食パン、プラムジャム、モンキーバナナ、パパイア、ゆで卵にオ−トミルがついた。欧州式フルコースが出揃うまでに結構な時間を要した。したがって、以後、オートミルは省略してもらうことになる。今晩の宿、ホロンボハットは下山時にも使うので、混雑するとのことで、場所とりのためリーダーが一足先に出発して行った。冗談ばかりいっているN氏が頭が痛いといって、口数が少ない。
9:00近く、ようやく出発。密林帯のぬかるんだ道を、頭に荷をのせて背筋をピンと伸して静々と進むJosafatiの後について行く。小1時間行くと密林帯をぬけて開けた草原に出る。ちょっとした解放感を感じ、サルオガセを瀧のようにたわわに垂らした木立の脇でサルオガセを花束のように抱えて写真撮影。N氏が唯一の既婚女性のYさんに曰く。「ご主人を一人にしてきてご心配でないですか?」。Yさん軽くかわして曰く、「若い人ならそういう心配もしますが」。私、突然割って入って、「残り火というのもありますよ」。T君フォローして、「キツイナー」で起承転結。
しばらく、背の高い草木帯をわっていく。次第に潅木の丈が低くなる。大阪から参加のI氏は人なつっこい笑顔をする。関西のことは何もわからない私であるが、その私が正調と感じる浪速弁を使う。イントネーションがとても音楽的でやさしく、うっとりとききほれてしまう。大阪の由緒正しい場所(?)にあるお父さんの和家具の金具関係の会社に勤めているとのことで、仕事も古典的なのだろう。本人自ら、こういう言葉を使う人は少なくなったといっていた。いずれにせよ、日本語の一つがこのような音楽性を有しているということは驚きであり、喜びでもある。
64歳の最高年齢のS氏はベレー帽がよく似あう、誰がみてもいなせな江戸っ子だ。相当の山のキャリア−を誇る。最初のうちは、私のことを学生さんか(!)と尋ねたりしながら、前後して歩いていた。しかし、I氏の、「**山岳会ではこう歩いてタイムマップを作るんですねん」といったポレポレ歩きにペースが合わなかったのか、先行して行ってしまった。
12:00前、いかにも多くの人々が憩うた風に草がならされた草原状の開けた所にでる。平な道に飽きて、いい加減にせいという気分になっている。何はともあれ団子になった4、5人でランチをとる。しばらくすると、T君、Yさん、Hさんのオーラス3人組が霧の中から現われてランチを共にする。霧が晴れるとボーと暖かくなるが、曇ると涼しくなる。
小1時間休んでから出発。ホロンボハットから戻って来たリーダーに出会う。いかにも“オッソイナ−”という呆れ顔をされてしまう。オーラスを務める我等と同行することになる。リーダーのファッションはというと、頭の白い手拭い鉢巻きを三つ編みのように後に垂らしているのはいざ知らず、緑色のジャ−ジのヤッケ、薄い桃色のTシャツ、ジャ−ジのブルーのズボン、紫色のポシェトに青いスニーカ−。ほとんど究極の色彩かつファッションセンスをしているとしか思われない。
しばらく草原状の開けた斜面を行く。霧が晴れると右手に岩峰マウンウエッジ峰が望め、草原はその裾にきれいに広がっていることがわかった。キリマンジャロは大きいお饅頭の上に二つの中小のお饅頭がのっているような形をしているが、手前の岩峰の小ピークがこのマウンウエッジである。なかなか見栄えがするピークだが、一般ルートがないことと、万年雪を頂いた主峰キボ峰がそばに一層高く聳えていることから人々にあまり顧りみられていないようだ。 時々まぶしいように日が照ってサングラスをかける。事前の情報収集では暑くてTシャツで良いという人もいたが、今回はTシャツで歩けたのはマンダラハットより上ではこの時くらいだった。ポシェットからキャンディ−やドライフルーツを取り出しては振舞う。T君から“歩くレストラン”の称号を賜わる。
14:43、3485mのMasheu Pointにつく。 ここには別段何もないところだ。ジャイアント・セネシオという、サボテンの大木が道の脇に記念碑的に立っていることを除くと。この木は我々日本人にとっては初めてみる印象的な形をしている。ユ−モアとペ−ソスを感じさせ、怪獣のようにも思われし、人格を備えた存在のようにも感じられる。記念写真を撮る。キリマンジャロに行った日本人は皆ここで写真をとる。それはこのジャイアント・セネシオが登山者を見守っているように感じられるせいではないかしら。(補遺4)
15:08、沢に出て一本。「トイレ」といって、斜面をあがっていく。おりてくると、リーダー氏が目を閉じて柄でもない暝想スタイルである。が、そのスタイルには確かにパキスタンの山奥に数カ月を過し、帰りの機内でヒンズ−語で(本人の弁によると)「君は僕の趣味です」とスチュワ−デスをくどいた(?)背景をうかがわせる、長いアジアの地の放浪生活をしのばせる貫禄があった。つられるように小川の脇に腰を下ろす。瀬のせせらぎがあっても、不思議に音を感じない世界である。「今迄、もう一つ小川の音が加わっていたんだけど」という発言に、高邁な感慨と暝想リーダーに対する淡い尊敬の念は終篶を告げる。
「あと、158m」とか、「47m」とかいう、リ−ダ−の高度計を頼りにした“正確”な情報に基
づいた激励を本気にするような、しないような気分で最後のツメ。
16:20、沢を横切り坂をあがってホロンボハットに到着。
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7.ホロンボハットにて−ぼつぼつ高山病発症す
ホロンボハットはマウンウエッジの裾野の、見とおしの利く気持の良い尾根に位置している。大きな食堂の周りにバンガロ−という構成はマンダラハットと同じだが、一周り大きい感じである。目指すキボ峰は霧に見え隠れしながらも、ここで初めてその右肩を望むことが出来た。スワヒリ語でマウンウエッジは狩人、キボは象の意味とのこと。マサイ族のようにやせて俊厳なマウンウエッジと、どっしりと大きく泰然たるキボ峰の特徴をよくとらえた、命名の妙である。高度約3800mで、いよいよ富士山の高度を越えた。ちょっとした緊張感を意識する。
到着後、間もなく、リーダーがSさんの具合が悪いのでおそばを作ってあげたいと、人選正しく同室のYさんに助けを求めてきた。集落のはずれにある炊事小屋について行く。中央に泥造りの釜があって、3個の大小の鍋が湯を煮たぎらせている。Yさんが手慣れた様子であれこれ指図をしていると、Nさんが「こんなところで遊んでおったんか」といいニーと笑いながらはいってきて、生き生きと料理に加わった。下界では相当うるさいグルメとみた。ゆでたあげたおそばをお鍋に入れて得意そうに我等が集落に持帰ると、HさんとRさんも炊事場へ行きたいということで、私は再び案内して戻った。我等がポーター達と記念撮影。帰りに別のポーターの一団が火を取囲んでオカラのようなものを大鍋で練っているのに出くわす。勧められるままに、「wheat」(?、コムギ?)のお団子のご相伴に預かる。僅かに塩味がついているだけで私達の味覚にとって決して美味とはいい難いものだった。相当異なるものを食していることを知る。あれこれ遊んでいるうちにすっかり時間が経ってしまい小屋に戻ると、リーダーが気をもんでおそばを届けてくれていた。N氏がこの高所で差し水までして仕上げた力作
のおそばはすでにそば団子となっていたが、久しぶりの日本の味に感動し、3杯たいらげてしまう。
お鍋を返しに行って戻った所、ポーターが、血の滲んだ白いタオルを巻いた手を痛そうに上向きにかかえてウロウロしている。「knife cut」という。“イザ出番!”とばかりに、凝固した血液の付着したタオルをベリベリとはがした。刃物で側面をザックリやってしまったらしい。黒い一層の皮膚の下に白い真皮があり、赤い肉が弾けていた。三色旗のような鮮やかなコントラスト。切傷で、浅くはないがすでに止血している。リーダー氏の救急バックを探したがわからないので、持参のアルコール綿で傷口を拭いてみる。ソット顔色を伺うが表情を変えない。今の日本人より忍耐強いのだろうかなどと推測をめぐらしているうちに、O氏がリーダーの救急バックを発見して持って来たので、彼はモルモットとされることから救われた。リバノールで消毒して、クロラムフェニコール軟膏を塗布、ガーゼを当てて包帯を巻いて完。「Thank you」といって、ニコニコしながら風のように帰っていった。
19:00夕食。リーダーの姿がみえない。「Iさんをタンクに入れている」とのこと。「Iさんは到着した時に唇の色が悪かった」と、Yさん。次の瞬間に私はIさんの小屋に駆けつける。赤い筒状のタンク、携帯用高圧室ガモ−バックが床に広げられていた。リーダーが天井に手を当てて踏張りながら、右足でポンプをゆっくりリズミカルに踏み続けている。加圧して空気を送り込み、同時に循環換気させて炭酸ガスの貯溜を防いでいるとのことであった。バックには小窓がついており、中でIさんが高度計をみつめている様子がみられた。いつもと変らぬニコニコ顔で、具合はそう悪くなさそうだ。タンクの中は2150m位の高度に加圧してあり、「1時間位滞在させる予定」とのことであった。ナイロン製だが内圧で板のように固く、はじけそうだ。私もポンプ押しを試したが、体重が軽過ぎて加圧が充分できず、高度が上がってきてしまい失格。Aツアー社のツアー間で計画表に従って持回りするそうである。(Aツア−社R氏談では富士山でガモ−バックを使う訓練をした時、ポンプを踏み続ける人が高山病になるという“循環装置”であったということである。
20:00頃リーダー氏が食堂に戻ってきた。I氏の具合は良くなったようだ。Jさんがウイスキーを勧めるとリーダー氏は「いらない」とブッキラ棒に答えた。I氏の件もあり、緊張感が一座を支配した。
20:45就寝。脈拍84回/分。トイレは一度のみ。満天の星がまぶしい。変光星が瞬きながら、緑、オレンジ、白に変化して、また緑色にもどる。無数の星に吸出されて、異次限へさまよい出てしまいそうだ。
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8.御岳山を望みつつ砂漠の道を行く
(3日目:アタック基地キボハットまで)
6:10起床。キボ峯がよくみえる。そびやかした右肩。雪が朝日に光輝いている。眼下は一面の雲海。透き通るような朝。少し鼻声で風邪気味なのが気になるが、それ以外は快調。
7:55出発。昨夜の炊事小屋の脇を通り抜ける。炊事の煙がいがらっぽい。日本の高山を思わせるしっとりした草の中を上る。抜けるとキボ峯がドーンと現れた。気持の良い高原散策といった風情が続く。他の唯一の日本人のパーテイー群馬山岳会の6人組と前後する。私たちより入山が一日早く、ホロンボハットで高度順応に2泊して附近を散策していたとのこと。ナレ−ション入りでビデオをとっている。山田昇氏が所属していた会で、彼は2日目の昼頃に登頂を果たしてゲ−トに戻っていたそうである。
さらに10時過、小高い見晴しのきく丘にでるとキボ峰が裾野まで全容を現した。誰もが一本とる所である。ここから見るキボ峰は日本の御岳山に似ている。まだ約2000mの高度差がある。植物はほとんど見当らなくなり、大きな岩がゴロゴロしている。ちょっとした、アメリカ西部劇の舞台である。大きな岩は久しぶりに出てきた絶好のキジ場となり、順番に駈け去っては戻ってくる。
丘を下ると「馬の背」にはいる。広い尾根道というよりは、真っ平らな不毛の砂漠。このような広大な平坦地がこのような独立峰の高所にあるということは信じがたいことだ。荒野に蛇行している白い道に踏み込んでいく。次第に左側から吹き荒ぶ風が強くなる。それにつれて、ヤッケを着込み、軍手をし、そして麦わら帽子をしまってネパール製の毛帽子を被る。
いつの間にかT君と二人連れになっている。「山はよく行きます?」とT君。「昔取ったキネヅカの年一登山ですね」「僕と同じだ」といった会話を交わしつつ行く。遠くまで見通しの効く道をいろいろな山姿をした人々が往来する。遠近に従って大小の形をしている。昔の街道がこんな感じだったのではないか。真黒に日焼けした精悍なJさんが、トボトボとうつむき加減に辛らそうに歩いているのに追いつく。常に先行し、酒飲みのタフな東北のお百姓さんというイメ−ジの人なので、ほとんど怪訝に思う。(後で聞くところによると、「額に十字架を当てられて、その上を孫悟空の絞輪でギリギリと絞めあげられたような頭痛」がしていたとのことである)
キボ峰の裾を巻くように右にそれていくと、遠目にも特徴的な大岩が目にはいるようになった。尾根の右側に出たせいか風は右側から吹いてくる。わずかの霧の合間から下界のサバンナ風景が、ところどころに濃緑の草木を点在させて、はるか下方に真平に広がっているのが望めた。足の着いている地面と地続きの場所というよりも、飛行機から見る光景に近く、神様の見ている風景というのはこんな感じかという気もした。
大岩にちょうど昼食のタイミングにたどりついた。4394mとの表示がある。ツア−のメンバ−のかなりの人々が大岩の陰に風をよけていた。一様にドス黒い不景気な顔をしてガイドからポットの紅茶のサ−ビスを受けている。N氏は窪んだ眼窩に大きな目をぎょろつかせ、頬骨の出た彫りの深い顔をしている。飛行場で皆に「現地の人が紛れている」とか、「間違えたのを連れてきてしまった」とか、かまわれていたが、その“ポーターか車夫”のように、ただでさえ黒い顔を一層黒くくすませて、「頭が痛いんや」といっていた。T君はガイドに私のことを「wife ?」と尋ねられている。若い彼の慌てふためく様をこっそりと観察して楽しませていただいた。
大岩を左に巻くと、いよいよキボ峰の登りにかかる。しばらく登りらしい登りがなかったこともあり、さしたる斜度ではないが足が重い。それだけ高くなっているということか。大岩を入違いに先に出発していったO氏とN氏がサブザックを背負って深刻な顔をして駈け下ってきた。小屋に着いたがO氏が気分が悪く、高度の低いところへ順化のために戻るらしかった。霙がちらつく。“あれが小屋でありますように”と祈りつつ、そうでなかったときの失望も警戒して目指していた、遠目には岩のようにもみえたくすんだ石作り小屋が今日の宿、キボハットだった(補遺5、6)。
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9.キボハットにて−高山病発症に暗澹とす
13:30、標高4800mのキボハット小屋着。今までの小屋と異なり、登山者用とポーター用の二棟である。頑丈そうな小屋の扉を押し開くと暗い通路をはさんで左右の小部屋にわかれており、入ってすぐの右の部屋が割り振られていた。中は凹字型に二段ベットが12脚備え付けになっており、リ−ダ−氏は凹字型のへこみにおかれたテ−ブルをベットにするとのこと。ほとんどメンバーが揃っているように見えたが、寝袋にくるまれみじろぎしない人もいた。Sさんが「そこの登りきつかったでしょう」という。自分のベットに荷を置いて、高度順化のためにT君と小屋裏の明日のル−ト登りに行く準備をする。T君は私と同様に、不気味な程高山病の自覚症状がなく、絶好調とのことである。そこへ、元気な中年コンビのB氏とU氏が寒そうに息を切らせながら飛込んできた。我々より先に高度順化に行ってきたとのことである。B氏は出発前に名古屋の高所研究所で2泊3日の順化トレーニングも受けて来たそうである。
傘だけ持って外に出ると冷え冷えとしていた。先程の雪はあがっており、道端は霜が立ったように白かった。ガスっていて見とおしが悪かったが、ポーター小屋の後を巻くように砂礫の斜面に道はついていた。今までの様相とは異なり、砂走りのような地質の急登だ。私はテレテレ登っていったが、T君は余力の違いを見せつけるかようにスタスタと登っていってしまい、20分も行った頃には大きな岩の向うに消えてしまった。今日の妻を置き去りにして冷たい奴だ。 30分も上ってから、岩に腰を降ろしてボ−としていた。今回のツア−で初めて一人になったような気がした。一切の物音はなく、如何にも自分が宇宙に一人で在る、という感じがした。自分の存在を、持続的にこの自分が経験しているということが不思議なことのように思われた。
かき消えてしまったT君は戻らず、消え去った岩のあたりまでブラブラ行ってから先に下ることにする。大した距離ではないはずだったが、途中から霙がちらついて視界が効かなくなった。「そんなことはない」と信じながらも、見知らぬ異国の山を手ぶらで一人ほっつき歩いている不安な気がしてくる。小屋の屋根らしい陰影が忽然と現われた時はホットした。
小屋に戻ってteaを5杯位ガブ飲みして、ビスケットを食べる。4500m以上では一日に4l以上の水分摂取が必要であるという。リーダー氏は「皆、飲まな過ぎるんだ」といって、10杯位飲んだとのことである。
16:00夕食。17:00、アタックを明日に控えてガイドの説明がある。「無理はしないで、ポーレ、ポーレ」とのこと。キボ峰は火山で、最初に到着する頂上の火口の縁がギルマンズポイントで標高5685m、ここまで上れば登頂証明が発行される。そこから火口の縁を2時間位行ったところが最高地点ウフルピ−クで5895m。富士山でいうとギルマンズポイントが浅間神社奥社、ウフルピ−ク剣が峰というところか。キナバルのリ−ダ−R氏に山行前に問い合せたところ、「ギルマンズポイントから先は5歩毎に休み休み行かねばならない程きつく、往復3時間を要するので、余程余力のある人しか行ってはいけない」とのことであった。リ−ダ−
が誰がどこまで行きたいかと聞く。ウフルピ−クまでを希望した者が半分くらい。私もオズオズと「ウフルまで行きたい」と申し出る。リーダーは「下ることは考えないで行ける所まで行け」という考えらしかった。
小屋では寝袋にもぐり込んでいる人が多かったが、ガモーバックや酸素吸入の出番はなかった。私の脈拍は著変なかったが、N氏は130回/分あった。私は時差ボケを防ぐつもりでこの日まで睡眠薬(ブロチゾラム、レンドルミンR)を半錠づつ内服していたが、この晩は1/4錠に止めた(補遺7)。
18:00、リーダー氏の指示に従って明日の身づくろいをして寝袋にもぐる。下着は新素材オ−ロン製の上下、靴下もオ−ロン。シャツはウ−ル。テルモスにいれるお湯の配当が遅れているということで、リ−ダ−は19:30頃まで起きていた。私もさっぱり寝つけず。仮眠程度なので眠らなくても良いやと開き直る。
横になる前にもトイレに行ったが、妙にトイレが近く、20:45再び起き上がると、ふと目眩がするような気がし、生欠伸が数回出た。ヤバイ! 吐き気だ! ついに私にも高山病の症状がでてしまった!頭痛もするようだ。鎮痛薬を内服して、暗澹たる気持で寝袋に潜りこむ。後はウツラウツラしたようなしないような状態で2時間を過ごした
23:00頃、リ−ダ−氏が起床。炊事を始める。皆それぞれに起き上がって、口数少なくアッタクの身仕度を始める。0:00頃、お餅入りラ−メンが出来上がる。私は一口を流し込むのがやっとで何杯も食べている人達がうらめしく思われた。リ−ダ−氏に、「体調良くなさそうなのでギルマンズポイントまでにするかもしれません」という。リーダーはこちらを見たが無表情で何も答えず。しかし、ギルマンズまでも行けるか?(補遺8)
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10.アタック
1:00出発。上に羽毛服、下にゴアテックスのオーバーズボンをつけて外に出る。靴下を三重に履いたという事前情報もあったが、リーダー「そんなに履いたら動きにくい」とのことで、私はオーロン製のものを含めて二重にした。靴はいままで通りの軽登山靴だが、他のメンバーはと見ると、昨日まで軽登山靴だった人もほとんど革の登山靴に変えており、軽登山靴は2名のみだった。さてはリーダー氏はと足元をみれば、何とスニーカーから革製登山靴に変じているではないか。事前に仕入れたR氏の「少なくとも最終日は革の登山靴です」を無視し、M氏の「機動性に優れた軽登山靴が一番です」に従ったことにフト後悔の念がよぎる。
闇の中で人々のヘッドランプの明かりだけが明るい。それはそれぞれが不安のままに、それでも登頂を祈願してやまない執念に燃えていることを表現しているようだった。また、横溝正史的世界の某が鉢巻きに差したロウソクの燈のようにも思われなくもなかった。 昨日登った裏道を登っていく。ラッキーなことにトップを行くチ−フガイドのメルキュリのすぐ後のセカンドにはいれた。体調不良が意識されていたので気分的に楽になる。実にゆっくり、ゆっくりとした、それでいて一定のペ−スで歩くので、セカンドはとても楽だ。Sさんが業を煮やしたかのように、一時前に出たが、しばらく行った所で道の脇に腰を降ろしてしまった。このような大きな高い山ではせくのは禁物らしい。
2:45斜面で一本。ふと、起床時の気分の悪さがかききえていることに気付く。(補遺9)
3:45ハンスメイヤ−ズケイブ到着。5151m。1989年に初登頂をしたハンスメイヤ−ズが一泊したとされる大岩の洞穴である。洞穴に闇はますます深い。遂に5000mを越え、そろそろ人々の様子に疲れがみえ、寡黙になる。
道はザラザラのつづら折れとなり、傾斜が一層きつくなってくる。曇っていて星はみえなかったが、月明煌々とし、稜線がくっきりと夜空を画していた。無風で恐ろしいほど静かだ。アッタクの天候によって相当印象が異なるときいてきたが、キナバルより風がない点が楽で、寒さに弱い私には絶好のアタック日和といえるかもしれない。少し歩いては遅れる後続を待って自分も息を整えるということの繰り返しとなる。何時の間にか隊列は長く延び、続いている人たちはメンバーの半数位になっていた。その斜面は月明に映えて地球の地肌がむきだしになっているようだった。そして、人々はそれに取りついている原始人のようにも思われた。頂を目指している小さくて必死な生き物達。その未明の黙々とした行進。
そんな中で、二人のガイド同志の会話や、すれちがうガイド同志が二言三言交わす言葉の、黒人の声帯を通したスワヒリ語(?)が、未知の言語であるだけに、音楽的で耳に気持ち良く、メロディ−をかなでているように聞こえた。「うちで最近生まれた雌羊の肥えっぷりが良くてヨ。キャベツは駄目だんが、今年のコ−ヒ−のでき具合は」などと話していたのか。後に付いているガイドはThomasというらしい。「Thomas!」と いう尻上がりのメルキューリの呼び掛けが耳に残る。複雑化し、せわしい競争社会文明の言語とは違う、たおやかなリズムを感じる。しかし、残念なことに、ガイドのゆっくりした足運びに業を煮やしたらしく、二人のメンバーが私の後に入ってきて、「進め」とか「休むな」とか命令し始めた。大きな声ではなくガイドの耳には届かなかったかもしれないが、同朋として恥かしかった。このような時くらい原始のリズムに浸る余裕が持てないものか。
夜明けが近づくにつれ独特の冷込みが襲ってくる。出発前に毛の手袋を用意しそこね、左手は軍手の上にスキ−用手袋を、右手はうまく被せられなかったので軍手だけをはめていた。不思議なことに二重手袋をした左手の方がかじかんだように冷たかった。以後、両手とも軍手のみとする。(補遺10) 夜が白々と明けてくるころ岩場となる。雲が厚くて日の出は拝めない。もう見上げることもせずに、ただひたすらガイドの足の運びにだけついていく。そう遠くはないはずだと思いつつも、期待するのは止めようと心に決めて。
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11.ギルマンズポイントにて
6:27。ぽっと壁の向こうに出た。目の前は霧で真白で何も見えない。少し左に行ったところが
ギルマンズポイントだった。
頂上の一角でもう少しも登りたくない気分でヤレヤレと喘いでいると、高い所にいるリ−ダ−氏に「こちらにおいでよ」と呼ばれる。しんどかった、という思いもあったが、
よし、これならウフルまで行けるぞという気もした。喘ぎを隠しつつ、照れ隠しのように、「さあ、ウフルまで行きましょう!」といいながら登って行くと、リ−ダ−が「元気だな」といってニガ笑いをした。
N氏が腰を降ろして茶渋色の顔色をして、前方に視線を落としたまま、上下に20cm位とび跳ねるようにガタガタと震えている。薄いヤッケしか着ていない。余程寒いのだろう。私のザックの中にスカ−フが残っていたので、貸してあげようと思っていると、ようやくザックをおろして中から羽毛服を取り出して着込んだので、他人事ながらほっとする。(後で、何故羽毛服を早く着なかったのかとN氏に尋ねると、自分がそのように寒がっていることに気が付かなかったとのことであった)
頂上にて写真を取る。かねてから用意してあった「キリマンジャロ登頂」と書いた紙をザックから取り出して称賛を浴びる。T君が持参した「富士登山」の日の丸をアクセサリ−にする。頂上の一角に日本人サイクリスト某が自転車でやってきた旨印した石碑があった。霧が晴れてくると、足元がざっくりと落ち込んでいて、下に一面真白な巨大な火口原が盆状に広がっていることがわかった。さらに晴れてきてガイドが「Glacier」といって指を指した方向をみると、遥か向側の火口の縁に階段状に凍った氷河が輝いているのがながめられた。1ステップ数10mもあろう、それは天国へ至る壮大な階梯のようだった。これはヘンデルの世界だと、アフリカのテッペンでうなってしまう。
ウフルまで行く人数の追加を考慮して後続を待つが7:15頃Sさんが上がってきたのみ。Sさんは、「私はギルマンズまでと決めてきたのでここまでで結構です」と、江戸っ子らしくさっぱりしている。リ−ダ−氏は頂上から下を覗き込んで、後続をさらに待つ。地元の山岳会で、2、3歳年長ながら彼を「親分です」と慕っているJ氏を同行させたかったようだが、1時間経過しても姿を見せなかったので諦めた様子。
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12.ウフルピークへ向う
7:27、女性2名を含む7名のメンバ−、リーダー、ガイド2人の計10名でウフルピークへ向う。道はギルマンズポイントのピークの左に巻きながら火口に一旦下り、ほどなく上りになった。霧が容赦なく吹きつけてきた。しかし、私を何よりも驚かせたのは雪の出現だった。最初、雪を見た時はそれは何かの間違えで、すぐ土か岩の道に戻るように希望的に願った。しかし、それは夏の立山にちょっと雪渓があったなどというレベルのものではなかった。いくら目を懲らして探っても、もうそこには真白な雪の中に踏み跡だけの道が霧の彼方に消えているばかりであった。下から眺めたキボ峰は雪冠をかぶっていたではないか。一番高いところを目指すというなら、その真っ只中の雪と氷の世界に突っ込んで行くことになるのは火を見るより明らかなことではではないか。思考回路がゆるゆると一巡したとき、ドッと不安と後悔の念が私を襲って、胸が苦しくなった。私は軽登山靴で、おまけに軍手しかはめてないじゃないか!その時、ふとスキューバダイビングのことが思い浮かんだ。初心者や動揺したときは多量の酸素を消費することを。そうだ、ここの酸素は薄いのだ、動揺してはいけないんだ、と
思った。ドウヨウしてはイケナイと心に決めたときから私はもうひたすら歩いて行くことしか考えなかった。
火口の縁をたどっているので傾斜はゆるやかだ。しかし、ゆっくりゆっくり一定のリズムで歩幅をきざんでいるガイドの足は、ほとんどひきずるようにしかあがっていなかった。そして、私の足も。すぐ後のN氏が嘔吐する音が3回位していた。“もうアカン”と私が思った頃、折良く隊列が止まってくれた。気がつくと杖に体重をかけてあえいでいた。ガイドのメルキュウリがゆっくり振返った。私もゆっくり振返った。N氏が雪の上に倒れていた。その後ではO氏がほとんど黒い岩のように倒れて動かなかった。「まだまだか?」と雪の上に上半身を起こしながらN氏がいった。その顔色はこの世のものとは思えない土気色だった。もはやポーターというよりは、モーツアルトにレクイエムを依頼に来た黄泉の国の使者という感じであった。だが、その目は“死んでも行ったる”という執念に燃えていた。およそ成人というものに達した人がこのように必死の表情を剥き出しにしているところをみたことがない、という気がした。と同時に、いつも賑やかなN氏の別の面を見る思いがした。“リーダーさん、ドクターストップをかけて!”と思った。一方で、“まだ1時間ぐらいあるなら全員やめたほうが
良いだろうな”と思って、それでも良いような気もした。「あと30分」とのガイドのご宣誓託らしかった。リーダーさんが「じゃあ、2班にわけましょう」といった。Nさんには気の毒だが、進む班と残る班にわけるのだろうと思った。リーダーさんがいった。「ポレポレチームと、もっとポレポレチーム」
一行は一層ポレポレと歩き始めた。深い霧が流れていて見とおしがきかなかった。風はさほどではなかったが、軍手は霧に濡れて氷り、手の指がかじかんでいた。日が少しでも照ってくれれば少しでも暖がとれるのにと思った。下を見て歩いていたら突然隊列が止った。そこがあっけないほどのウフルピークだった。今や全員「もっとポレポレチーム」と化した隊列の長い帯の、顔がゆっくりと順番に挙がっていって、喜びと安堵の感情の波が伝播していった。9:15であった。
ウフルピークであることは、雪原に無雑作に突刺さしてある細い棒と粗末な木箱が示していた。ガイドがいなければこの霧の中をもっと進んでしまっていたかもしれない。記念撮影をと思ったが、うつむいたりかがんで喘いでいたりしていて、とても登頂記念という感じにまとまらない。リーダー氏の八の字眉が白く凍ってサンタクロースのようだった。T君が私の軍手に気がついて毛の手袋を貸してくれたので楽になった。チョコレ−トなどをかじりながら15分位沈黙勝ちに過ごした。
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13.キボハットへの下山
下りは気楽になったせいか、出発したのは一緒だったような気がするが、いつの間にかバラバラになっていた。霧が次第に晴れて展望がひらけ、頂上附近の光景が謎解きをされるように現出していった。右手の頂上直下の氷河は、八ケ岳の硫黄岳の対岸を失った火口壁のように、バウムク−ヘン状に積層した断面をみせていた。下るにつれ、火口壁はそびえ上がっていった。開けた雪原を下っていき、ふと気が付くと谷を隔てた右手向こうは、火口壁の下に広いテラスが広がり、そのテラスが再び切れ落ちている断面は無数の氷の柱を成し、凍てついた壮麗な御殿になっていた。太い柱、細い柱、長い柱、短い柱あり、大小のテラスがその柱理構造に横のアクセントをつけている。前庭には水を湛えた池もあり、降りて行く緩やかなエントランスもある。これを見られただけでもギルマンズより遠くへ来た甲斐があると思った。「ギルマンズから先のことはヨウ覚えとらん」というN氏の脳髄にもこの景色だけはインプットされたらしく、小屋で二人でこの景色のことを話しながらリ−ダ−氏に相槌を求めると、「パキスタンでもっと凄いのみたもの」と憎らしい返答であった。
ギルマンズポイントの裏に回ると火口側になり、雪が疎らになった。雪の断面は一塊毎に槍のようにとがった結晶構造をしており、ベタ雪を見慣れた目には如何にも異様な光景だ。しかし、相当乾燥しているのか、軽登山靴でも雪が中にしみるということはなかった。
ギルマンズポイントに帰り着くまであと少しという所にわずかな登りがあり、それがどうしてこんなにきついのかと思われるほどきつかった。向こう側へ降りるとそこに3、4人たまって休んでいた。きつかったのは私一人ではなかったようだ。霧が晴れてくると再び火口原の反体側の縁にあの氷の階梯が望めた。晴れてくると一層その輝きが増して神々しいばかりだ。
10:45、ギルマンズポイント帰着。人気がすでになくなっていた。我らのチ−ムの残りの人々もいない
。ガイドが背負っているサブザックにパノラマ写真機が入っていたが、先行してしまっていたので使えなかったので、ここでようやく、取り出して念願のパノラマ写真を写す。一行はというと、N氏とO氏はエビのように身を屈めて地面に倒れていた。同行していた元気そうみえたT君が気分悪そうにボ−としている。頭痛がするとのことだったが、頭痛薬はいらないといった。あとできくと、夜間は頭痛のために眠れず、山頂では病的な眠気にとらわれていたとのことであった。私は橈骨動脈と頚動脈に触れてみたが、指先の感覚が鈍っているのか、うまく触知できなかった。
11:05、ギルマンズポイント発。岩場を抜ける。一ヶ所ガイドとリ−ダ−が手を取って降ろしてくれる場所があり。何でもないところなので、「?」と思っていると、Aツア−社で落石による死亡事故があった場所だと誰かがいっていた。そこを過ぎると富士山の砂走のようなザラザラの下りとなる。ズルズルと足を滑り落としていく。下りていく足元から砂埃が煙のように立つ。遠くの人が砂埃を蒸気機関車のように盛大に立てて下りていくのが見える。
11:42、ハンスメイヤ−ズケイブ通過。一段落し、地面が固く、平らになった岩のところで休む。三々五々、人が溜まる。相変わらずオ−ラスだが、奈良二人コンビのO氏だけ偉く遅れているようだ。皆でまだ点のようなO氏を心配そうに見上げる。腰から下が脱力したように足元がおぼつかず、崩れ落ちそうだった。追い付いてきてから出発。
12:25キボハット小屋帰着。女性陣のHさんは9時頃、Yさんは8時頃ギルマンズポイントに着いたとのこと。残りの人も全員ギルマンズまでいけたとのこと。万歳。Aツア−社始まって以来の快挙らしい。S氏は「いつも僕が一番強いんだけど、このツア−は強い人が多いねえ」といっていた。リ−ダ−氏の操縦術に皆でのせられてしまった感もある。(補遺11)
登頂はしてきたものの、ほとんどの人が言葉もなくシュラフにもぐりこんでいる。しかし、次の登山者がそろそろ到着しはじめたので、慌ただしく荷分けをする。この部屋にはフランス人のグル−プがはいってきた。ついつい、ブルックシールズのような女の人に、「ウフルまで行って来たんだよ」と吹いてしまう。間近にみる若い白人種の顔は皮膚が透き通るように白く、とても我等と同じように3日間の行程の果てにキボハットまでたどり着いたように思われない。
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14.長い下山−ホロンボハットまで
13:30出発。小屋の前で全員で記念写真をとる。本来元気な連中がウフルまで行った筈だが、あとで写真をみると、ウフルまで行った連中の方が、一様に疲れた生気のない顔しており、一瞥して識別できそうだ。
砂漠道、単調な平らな道をひたすら黙々と戻る。N氏と合流する。お互いにやれやれ退屈しのぎができた、といわんばかりに無駄話をしていく。途中、トランジスタ−ラジオをがならせながら歩いているポ−タ−をひやかす。かなりオ−ルドファションだが得意そうである。雲が上から下りてきてキボ峰を重くおおってしまう。
N氏は合流したときはうつむき加減で不機嫌そうな顔をしていたが、高度の低下もあってか、ツアーの人の品定めなどを肴に、どんどんいつもの関西人らしい軽口がでてきた。会話をするということは生理的にも精神的に日常性を回復させる効果があるように思われる。
砂漠帯を過ぎて、小山の坂を登ってようやく一段落した気分がして来る。テルモスから水を飲む。砂漠の中ほどにO氏とJ氏らしい二人連れが小さくみえる。草原にはいると先行していたT君、Hさん、Yさんらに合流する。Yさんは写真機がこわれており、私が彼女の報道官を頼まれていたので、「あまり先には行かないで下さい」といっておいたのに、昔気質の律義な所があるらしく、チャランポランな私を残して先に行ってしまっていた。任務遂行とばかりに、一行の草原を行く姿、一服するところなどをカメラに収める。もうホロンボハット小屋も近いし、高山病の症状もないということで、皆にリラックスした雰囲気がただよう。
N氏が先頭に最後の下りにはいるが、どうも様相が違う。沢ぞいの畔道みたいになり、登りに通った記憶がない。とても一般ルートとは思えない。後からつられてついてきてしまった白人の二人連れもとまどっている様子だ。ただ、晴れていて周囲の展望が利くのが救いだ。しかし、この広大なキリマンの裾野でルートを逸れるということは・・・。小屋がみえないので、小屋より下にくだってしまったかと不安に思う。しかし、ガムシャラにおりていくと、広い踏みならされた道が左右に通っているところに出くわした。右手は例のジャイアント・セネシオがあちこちに頭を出した広い草原が見渡せ、小屋がありそうもない。とりあえず、左手に回ってなだらかな尾根の裾を巻いて行くとホロンボハットが部落のようにそう遠くなく眺められた。
ほっと一安心するが、もうせく気分は失せてしまい、一人のんびり歩いていく。散策に出てきたスイス人に上の様子をきかれる。この一行とは後で食堂で隣あわせたが、シャモニーの人達で、お父さんが大層な山男だが5年前にキリマンジャロで高山病に悩まされたので、皆で今晩からダイアモックッスの服用を開始したいとのことであった。他人の体験談を踏まえて、寝る寸前に内服するとトイレが近くなって眠れなくなるので、なるべく早目に内服するようにと話す。
ホロンボハット小屋に16:50到着。行動時間約16時間だった。
夜ガイド達と交歓会をしようとリーダー氏が提案したが、食堂に集ったのは何故か女性のみ4名で、男性はリーダー氏以外一人も来なかった。女性は強し?。しかし、ガイド達の興味はひたすらチップがいくらプラスしてもらえるかということにある様子で、少々興醒めする思いがした。お菓子、ザック、帽子などをあげる。(補遺12)
ガイド達に生活ぶりを尋ねると、普段はキャベツやコーヒー栽培の農作業をしており、3週間に一回位の割合でキリマンジャロ登山のガイドをするとのことである。財産であるブタの頭数などを自慢気に話し、家畜の資産価値の高さを想像させた。子供は一人か二人で、生活が大変で子沢山という訳にはいかないということで、日本と同様で、意外と管理されている感じである。
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15.下山(5日目:最終日)
最終日。植物の写真をとりながらYさんとのんびり下る。マンダラハットの手前の草原でAツアー社の別隊とすれ違う。ケニヤ山を回ってきたパーティーだ。キナバル貴人(奇人?)会のHu氏とMさんに霧の中で出会う。Hu氏はケニヤ山レナナピークを登頂したが、「消耗しちゃって」とのこと。Mさんは「十二指腸潰瘍がでちゃってダメだった」とのこと。下山者がこれから登る人に擦れ違う時の安堵感をいつものように味わう。ホヤホヤの3日の長のある者として、二人に急いではいけないと偉そうに忠告し、不要となった杖をMさんに貸す。この際、余ったドライフル−ツを渡して
“歩くレストラン”の店仕舞いもしてしまう。
お盆のシーズンになったせいか、日本人パーテイー数隊に会う。この時期にキリマンジャロに来たヨーロッパ人は登山者の半分が日本人なので、さぞや驚かされることだろう。
マンダラハットに到着すると先行していたポーター達もたむろしていた。一団となって草原に横になって寛ぐ。サイモン君がいたので、テルモスを見せながら“あげる”というと、「I don't like it」といわれてしまう。いささか凹凸のへこみがあることが彼にいかにも中古の印象を与え、気に食わないらしい。結局、出発前に写真関係の景品(とはいえ新品)として手にした緑色の布製の袋で、“よろしい”という承諾を得た。
下るに連れ、下界の暖かさが蘇ってきて、Tシャツ姿になる。目標が達成されてしまったあとの何ともいえない寂しさと、虚脱をほとんどいぶかりつつ、解脱したような心地良さに身をまかせていた。緑が次第に濃くなっていった。
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16.帰国後
帰国後、少しビールを飲んだだけで気分が悪くなり、階段で息切れがした。頭の巡りも一層悪くなっていたように思う。元に戻るまで1カ月位を要した。単なる疲れかもしれないが、「遅発性高山病」というものがあるように思われる。
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17.訃報
本稿脱稿に前後して、このすばらしい山行の、多くを負っているリーダー二上(ふたがみ)純一氏の訃報に接した。「身の丈」登山を志し、二人きりでエベレストに挑まれたが、1991年5月27日登頂直後、霧の中へ転落されたとのことである。ご冥福をお祈りしたい。(補遺13)
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(補遺)
1;アイザックダイネーセン著の「アフリカの日々」では冒頭に、このデイックデイックが月下の草原を飛び跳ねる様が幻想的に美しく記述されている。映画化され、「愛と哀しみの果てに」という馬鹿げた日本題名がつけられたが、内容は女性主人公の強い個性がうまく描かれており、なかなか良かった。ただ、動物に関してはライオンにしかスポットライトが当てられていず、月下のデイックデイッックは望むべくもなかった。せめてデイックデイックが走り去る草原風景くらいは欲しいところであった。
2;キリマンジャロ登山中に擦違うポーターが“コニチワ”、“ガンバール”という中に交じって、“ショショショジョジ”というものもいた。なぜ、ショジョ寺なのか、誰か最初に教えた日本人がいたのか、はたまた、なぜ、上を向いてあるこうやサクラサクラではないのか、などは謎として残ったのだった。
3;高所では浮腫が生じ循環血液量が不足する。また、運動による口呼吸・発汗に加えて、低酸素を補うための換気量増加も脱水を招きやすい。高山病の予防には多量の水分摂取を行なうことが効果的とされている。
4;手塚治虫の「火の鳥」に、遠い惑星で自らは植物の姿に変じて恋人に乳を与える、そういうサボテンとシダをあわせたような植物が描かれていた。それがイメ−ジされる姿である。
5;急性高山病の症状の主なものは頭痛、暈、疲労感、吐き気、食欲不振、睡眠障害などである。低酸素に対する換気量の増加はPaCO2(動脈血二酸化炭素分圧)を低下させ、脳血管を収縮させる。これが頭痛の一因と考えられている。
6;ダイアモックスは高山病に予防効果があるとされている。リーダーの救急ボックスに(何故か)インド製のダイアモックスが入っており、私も用意していたが、結局、私は内服しなかった。作用機序は利尿効果と過換気によるPaCO2の低下に拮抗するということである。
7;海抜0mでも睡眠時にはSaO2(動脈血酸素飽和度)は低下するが、高所では一層、低酸素症が増悪するので睡眠薬の内服は一般に禁じられている。
8;ちなみに酸素濃度は標高5300mで下界の半分になる。5300m以上の高度では人は順化できずに衰弱するのみであり、これを高所衰弱という。この半年後に参加した友人の歯科医からパルスオキシメ−タ−を持参することになったという噂をきいたので問い合せた。M氏によると、キボハット小屋におけるSaO2値は元気な人で
80%くらいで、60%前後が多かったとのことである。30%代の人は嘔吐し始めたのでその日のうちにホロンボハットに下山させたとのことであった。M氏の話具合ではSaO2値が高山病の症状と一致し、高山病の指標になりそうである。しかし、別隊のリーダーK氏談によれば、30数%の最低値を示した人は一番元気な人で、荷を自分であげ、ウフルピ−クまで行ったとのことある。したがって、SaO2値は必ずしも指標とはならないらしい。いづれにせよ予想外の低値であるが、高地では酸素解離曲線が右方移動するので、PaO2は下界と同じSaO2値に比較すればもっと高値を示していると思われる。最近は報告も一般化し、4300mで覚醒時に平均86%、睡眠中に平均60-75%の値(「登山の医学」)や、5350mで平均75%の値(大阪歯科大学遠征隊)も報告されている。キリマンジャロの値よりやや高いように思われるが、私達の様な一般公募ツア−の参加者では基礎的な体力が登山隊隊員概して劣るだろうし、順化に費やされる時間も短いことが、より低値を示す原因であろう。年令的には順化して最終的に達するSaO2値は老若で差はないが、一定値に達するまでの期間はないが、順化するまでの期間は若い人で短いとする
報告がある。参考までに、今回のメンバーの年齢は20代後半から64才まで、偏差値は大きいが平均は40代半ばというところであった。なお、ちなみにエベレスト頂上では30数%になるとのことである。
9;高山病の発症因子として高所の滞在時間も挙げられている。しかし、私にとって高山病の発症は、仰臥することによる安静と横隔膜の挙上がもたらす換気量の低下が関与しているように思われた。起きて活動しているときには意識的にしなくても過換気になっていたのかもしれない。意識的に過換気をするようにと書いてある本もある。
10;二重手袋によって絞められることによる血流障害と考えられる。それが低酸素に特徴的な症状か否かは不明である。日本の高くないスキ−場で試してみる必要がある。
11;某社の資料によると、ツア−によって差があるが、ウフルまで行ける人は平均して10-30%、ギルマンズで60-90%とのことである。
12;トーマスは下山後にパリっとしたサファリスーツに英国風の山高帽をかぶった清潔なスタイルに一変して登場し、皆をあっけにとらせた。モシまでといってメルキューリとともにマイクロバスに同乗し、結局アルーシャのホテルまで同行した。リーダーが招待したホテルの食堂でテーブル端で隣合せになると、私に「明日からのサファリの案内をしたいのにリーダーに断られたので30ドルをくれないか」という。さらに、「ここでx時に待っているから」という話になった。それぞれ言葉の終りに「Please don't say leader」と、小学生が「先生にはいわないで」という時の切実な真剣さで何回も付加える。「皆に計るから」、「今、現金を持っていないので両替できる明日にならないと」とか答える。「明朝7:30に」としつっこいので、少し変だなという感じがして、英語がわからない振りをすることにしてしまった。あとでリーダーにこのことを相談していると、S氏も下山中にトーマスに10ドル(日当の1.5-2倍程度)のチップを要求され、「良い気分はしなかったが日本円ではたいした額ではないので渡した」ということである。リーダーによれば、ライオンズサファリ会社との契約は今日までで、サファリには全く別の政府のガイドが付くことになっており、キボハットで日当とは別にガイドに20-30ドル、ポーターに10ドルのチップを渡したとのこと。下山中にもJosafattiと歩いていると、擦れ違う友達らしいガイド達が親指を立ててクロスさせる挨拶を私と交わしながら、「Josafattiにpresentをしっかり渡すんダヨ」と念を押した。白人と比較して気前の良く、分け隔てしない日本人がターゲットになっているのか、一般的なことなのか不明である。好ましい傾向ではないが、難しい問題を含んでい
る。
13;エベレストを二上純一氏に同行し、ともに登頂した貫田宗男氏が「山と渓谷;1991年9月号,たった二人のチョモランマ−中年サラリ−マン二人の世界最高峰登頂記
p159-173」を記している。また、「岳人;1991年10月号」には対談で、パルスオキシメーターを駆使して高度順化の目安にしたことが紹介されている。さらに、「二人のチョモランマ−中年サラリ−マン登山隊8848メートルに挑む」(山と渓谷社)も刊行され、詳細が報告されている。
参考文献;1)ウイルカーソン編;登山の医学、東京新聞出版局
2)登山医学(日本登山医学研究会会誌)、1990、10(1) |
<追悼 二上さん−また案内たのみますよ>
Mさんからの留守番電話。東北訛りのあるとつとつとした話し方。「二上さんが登頂したんですが−、転落しました。以上です。あ−、それから、貫田さんは降りてきました」・・・一瞬にして意味を了解した。しかし、あっというまに黒板消しで消すように否定してしまう。落ちて怪我しただけでないか・・・。しかし、降りてきたのは一人ということは・・・。が、そんな訳ない。「二上さん変な冗談はやめてくださいよ」という皆の前に、「ヤ−、すまん、すまん」というように登場して来るのだ。
翌日の新聞を神経質に探し出す。夕刊に予想以上に大きく載っていた。頂上直下で雪庇を踏みぬいたらしい。その遭難はマスメディアに公表され、事実として否定の仕様がないものとなる。
初対面の印象は『今どき珍しいくらいの山男で、どこか東北ぽいマッチョ』という感じであった。ところが、この人は関西なまりの日本語を話し、ボンベイではヒンドウー語を、アジスアベベでは英語を操り、ウルドウ語まで喋れるというマルチ・リンガルぶりであった。ほとんど素性を怪しみ始めた私に曰く、「その土地に2、3日いれば言葉なんてわかってくるでしょう」。
冗談ばかりで、アルコールが大好きで、人なつっこかった二上さん。大陸的で、自信があって、責任感が強い感じでしたが、尊大ではありませんでした。他方、細やかな心遣いをしていましたが、おしきせがましさがなく、そのことが他人に負担になるということはありませんでした。むしろ存在の自然な在りようが人に安心感を与えるという感じで、短時間のうちにメンバーに信頼感を抱かせ、統率性とカリスマ性を発揮したのでした。
立派な体躯をしていましたが、笑うと八の字眉をして、ちょっと困ったような愛敬のある、人が良さような顔になりました。それにしても、あのようにに明るく豪快な印象だった二上さんが、今、写真でみると、どうしてこのように悲しそうな顔に見えるのでしょう。
キリマンジャロツアーのいろいろなエピソードを思い出します。
ンゴロンゴロのサファリ(野性動物見物)では、「キリマンジャロよりこっちの方が良いなあ」といって、子供のような笑顔をみせていました。
離れ象というものは一生、群に帰ることが出来ないそうですが、ただ一頭の象が広大な草原をノッシノッシと横断して行きました。火口縁にあるホテルに帰るとベランダから火口原を俯瞰することができます。二上さんは、「望遠鏡でずっとあの象をみていたら、へたりこんで寝てしもうた」と、夕食の時にポツンといいました。その図体が大きいだけに一層孤独な象の姿を、暗くなるまでずっと追い続けていた人の心も、少年のようなナイーブさを持っていたように思います。
そして、その魂は人生の絶頂の時に、私たちの世界から一瞬のうちにかき消え、その志の高さに殉じてしまいました。地表のほとんどもっとも高い地点で時空の隙間に吸込まれるように。エベレストの氷は、雪と氷が好きで、好んで関西から盛岡へ転任したという二上さんを、永遠に封じ込め、否、抱きしめたまま返してくれようとしないのでしょうか。
二上さん、私はキリマンジャロのことと、登頂できた喜びを人生の最高の思い出の一つとして記憶し続けるでしょう。そして、二上さんの何気ないやさしい心遣いが終始リラックスした雰囲気を作り、登頂へと導いたことを疑わないでしょう。私が実際、二上さんとかかわれたのは、このわずか11日間にしか過ぎませんが、共に登れたことを誇りに思い、二上さんのことを忘れないでしょう。
二上さん、そちらの世界はどうですか。良い山はありますか。私たちも遅かれ早かれ、やがてはそちらの世界へ行くでしょう。その時は、また案内たのみますよ。
合掌
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後書:本著は1990年8月6日から10日に登ったキリマンジャロ登頂の記録です。東京医科歯科大学歯科麻酔学教室同門会雑誌に載せるために高山病にスポットライトをあてて書いたものに、これからの登山される方のガイドとして役立ていただけますことを念頭において加筆したものです。御意見、御感想などお寄せいただけましたら幸いです。
二上氏には顔をみることのできなかった最後のお子さんを含めて5人のお子さんがいらっしゃいます。現在、生前のお人柄を示すように基金募集が行なわれておりますので、ご協力いただけましたら幸いに存じます。
| 郵便口座番号 |
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盛岡 8−31148 |
| 加入者名 |
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「ポパイの会」 |
| 連絡先 |
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佐藤敏彦
盛岡市茶畑1−1−6
グリーンビレッジ2階 神農歯科
TEL;0196−51−8241 |
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| 著 者: |
山ボケ猫 |
| 発行社: |
山ボケ社 |
| 出版日: |
初版1991年6月8日 |
| 改定第3版1991年11月14日 |
| 定 価: |
皆様が読書に費やした時間 |
ヘミングエイはその著、「キリマンジャロの雪」で、
“キリマンジャロの西の頂上に凍てついた豹の死体があるが、
豹が何故、頂上に行かねばならなかったのか、
その理由を誰も知らない”
と記した。 |
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