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製作著作山ボケ社
無断転載を禁ず

エクアドルのコトパクシ山



 エクアドルというと、妙な顔をされる読者もいるが、エクアドルこそ、知る人ぞ知る、短期間で5000m、6000m峰の登れる、高峰の世界的メッカなのである。長期休暇のとれる欧米人は、1カ月かけてエクアドルを北の山から南の山へと移動し、最後の仕上げにチンボラソ山6310mを登るそうである。


 今回はエクアドル第2の高峰、コトパクシ山5897mを目指すことになった。私にとっては6年ぶり7山目の超5000m峰であった。メンバーは、Sさん('83年の小西正継氏のK2隊員、毎年奥多摩72kmマラソンを完走しているが、今回は会社を起こしたばかりで、不眠不休の超多忙の中、無理しての参加で体調不良)、Fさん(京都の小学校の先生で、山ボケ猫とは11回目の海外登頂ツアー)、Mさん(某電力会社社員、大菩薩ヒュッテのサイトにも出没している、別名ねぼけぐま、通称クマさん)に私山ボケ猫の4名の個人ツアーであった。

Volcano Cotopaxi (5897m)
別名「エクアドル富士」とも呼ばれるMt.Cotopaxi

8月10日:夜、ヒューストン経由で21時間半の長旅の末、首都キトー着。キトーは標高2800m、世界一高い首都で、11日は高所順応を兼ねて市内観光。旧市街は世界遺産に指定されており、遠くから眺めると赤煉瓦の屋根と白壁が綺麗に見えるが、市街に入ると細い路地は排気ガスと交通渋滞で大混雑。独立記念日とのことで、期待したのだが、パレードなどの催物らしいものはまったく見られず、がっかりした。午後は25km位離れた赤道へ行った。エクアドルというのは、赤道という意味だそうな。記念碑から真っすぐな線が100m位黄色いペンキで引かれていた。赤いペンキはなかったのだろうか。


赤道上で地球を手中に収めようとする山ボケ猫さん
世界制服の野望は達成されるのか!?

8月11日:近郊のピチンチャ山へハイキング。といっても、車を降りたところが標高4000m、山頂は4781mで、クマさんは自己最高峰といって喜んでいた。頂上は霧の中で様相はよくわからなかったが、霧島の韓国岳のように火口が切り立っている模様であった。活火山だそうだが、硫黄臭さや噴煙はなく、日本で言うと死火山という感じ。4500mに小屋があったが、山賊が出るので泊まる人はいなくなってしまったとか。


Mt.Pichinchaにて
車の運転手とその彼女までついて来てしまった

8月12日:コトパクシ山麓の3800mの山小屋に移動。キトーから150km、3時間。ちなみにコトパクシは距離的にも東京と富士山の関係に似て、キトーから白く雪を戴いた山容を眺めることができる。両裾を引いたパラメトリックな姿は富士に似ており、邦人の間ではエクアドル富士と呼ばれているとの由。世界最高の活火山でもある。市場のある町を出てから2時間近く、車はめったに通らないんじゃないかという田舎道を前後左右に揺さぶられ続けた。カムチャッカで改造された軍用トラックに乗せられて氷河の上を行った記憶が蘇る。昼頃3800mの小屋に到着。何もない荒れた平原の真っ只中で、正面にコトパクシ山が、何にも隠されずに、思う存分、裾を広げている。風が強く、寒かった。明日からの登山が心配された。山小屋は立派な建物で、1階の食堂はホテルのようだ。一休み後、高所順応のために4600mの4合目の駐車場まで車で行く。アッタク基地となる5合目4800mのホセリバス小屋を往復し、17:00、3800mの小屋に戻った。夕食はスパゲティーでシェフが挨拶に登場した。

高所馴化訓練中のクマ、マルシアル、山ボケ猫の面々
ホセリバス小屋から氷河末端部まで高所順応に出向く
マルシアルを間に挟んでクマさんと山ボケ猫さん

8月13日:9時、3800mの山小屋を出発して、ホセリバス小屋に入る。厚着をし過ぎてきて、気分が悪くなり、ゆっくり歩いて貰う。午後2時10分、高所順応に1時間ほど登る。なけなしの体力を消耗しては大変と、“ウナ オーラ(1時間)!”と限定する。午後3時40分小屋に戻る。
 私達のガイドになるウルフさんがポスターを示しながらルートの概略を熱心に説明してくれた。彼は歌舞伎役者が見得を切るときにかっと見開いたような大きなどんぐり眼をしている。スリムで恰好も良い。精悍という言葉は彼のためにあるのではなかろうか。エベレストだって無酸素で駆け登ってしまいそうだ。“呼吸法は吸って1歩出して、吐いてもう1歩出すのだ。パニックになってはいけない。登山はセルフコントロールなんだ”と、実演を交えて講義してくれた。なお、ウルフはあだ名で、本名はエフライン・コバというそうで、漢字で書いてくれと言うので、“絵夫羅印・子馬”と書いてあげた。“ウルフは日本語で何と言うのか?”と聞くので、教えると、“オッカミ”といって御満悦だった。
 4時半頃夕食。もう一人のガイドのエドワルドが同じテーブルについた。これまた胸板が厚くて精悍そうだが、温厚な感じがする。8時頃、就寝。小屋からキトーの夜景と星空が綺麗だ。天の川が神々しく立体的に輝いている。流れ星が流れたので、とっさに、“コトパクシ山に登れますように!”と願いをかけた。後で考えればもっと気の聞いた願い事がありそうだったが、まあ、その時はその一心だったのである。



「いいかい こんなふうに息をするんだ」
実演して見せる ガイドのウルフさん

8月14日:午前1時20分、ヘッドランプをつけて小屋出発。他の人達は12時から1時頃に出発してしまい、最後の隊だった。2日前までは風が強くて登れなかったそうだが、この日は微風。絶好の登山日和。さすが、晴れ女と晴れ男二人をトリプルで同伴してきた甲斐があるというものだ。砂礫の単調な登りだ。
 2時45分、氷河取り付きに到着。振返れば三日月が東の空に登っていた。アイゼンをつけて、マルシアルとアンザイレン。マルシアルはキトー到着時からずっと行動を共にしている。山岳ガイド兼タウンガイドである。29歳で、ふけた学生である。氷河の取りつきには先行パーティもいて、混雑していた。
 3時出発。氷河上に出るまで、凍った泥まみれの狭い急登が標高差で7、80m続いた。アイゼンを効かせながら、登りやすそうな場所を選んで登った。“出だしからエライこっちゃ”と思った。上に出たときは息があえいでいた。
 しばらくはゆるい雪の斜面をトラバース気味に辿って行った。時折、クレバスをまたぐが、真っ暗なので規模が分らない。4時に休みを取った。F・Sパーティが遅れ気味で疲れているようにみえた。クマさんはどこに行ってしまったのか、姿を見掛けなかった。私のテルモスには濃い目に溶かしたエネルゲンにアミノ酸粉末が1袋入り、それにユンケル皇帝L液が3分の1瓶くらい足してあった。一口飲んで、“なんてえ、テリブルな味だ”と驚いた。ポットには、折角持ってきたのだからとチョコレートドリンクとカカオドリンクの粉末2袋をお湯に溶かしてブレンドしてあったが、こちらは小屋を出がけに一口飲んだら、甘過ぎて下痢をしそうだった。一昨日のエネルゲンに梅干の果肉を混ぜたのもまずかったなあ。今回のドリンク・レシピエは失敗か? Fからピュアなポカリスエットをもらって飲んだ。
 その後、ルートは急になった。真っ暗闇の中、後続のF・S組のヘッドランプの灯りを待っては進むという展開になった。5時にもう一度休んだ。この時は後続を10分ほど待った。これでマルシアルは先に行くことに決めたようで、以後は、待たなかった。
 ルートは一層、急登になった。それでも、1呼吸1歩から、悪くても2呼吸1歩でこなせた。道脇で座りこんでいる2人組がいた。"Good luck!"と声をかけられる。ここで諦めて下山するパーティだろう。
 東の地平線がほのかに赤らんで来ていた。左上方に、その部分だけ氷がはげている、この山に特徴的な黒い岩が見えていた。黒い岩は最初はほとんど頭上にあったが、次第に左脇に落ちてくるようだった。その位置関係を顔を上げるたびに確かめて、稼いだ高度を実感することができた。
 5時半を回ると明るみが増した。夜明け前の冷え込みは予想通りだ。顔に吹きつける風が冷たいが、風速はさほどはない。エルブルース(ロシア5641m)のブリザードの時と比較すれば顔面凍傷にはならないだろうと思った。手袋は一番下にブレスサーモの薄手のインナー、真ん中にフリース、外側がゴアの三重であったが、手の指が冷たく、両指先を握ったり、開いたりして、少しでも暖めようとした。いつも使っているウールをはめていなかったのは失敗だった。上半身は風が冷たく、上着はスキー用の厚手のゴアテックスにすべきだったかなと思った。しかし、ザックに入っているチョッキを出して着るほど寒くなかった。下半身はやや寒かったが、足は新品のプラスチックブーツのせいか、靴下が良かったのか、冷たさを感じなかった。
 5時50分頃、急坂を終えて稜線を右手にそれた。稜線の西側に入ることで風を避けることができた。ザックに一つだけホカロンを入れてあったので、取りだして、右手のゴア手袋の下のフリースの甲に張り付けた。しかし、暖かさを最後まで感じなかった。低酸素でうまく燃えないのか、寒過ぎるせいか。日が出たようで、1分毎に明るさが増して行った。ヘッドランプをザックに放り込んだ。
 稜線の右側を辿る道は氷河の断面になっていた。つららのように氷柱が立ち並ぶ、輝く回廊のようだった。右手にはコトパクシが富士山の様な影を地球に投じていた。再び稜線に立つと風が冷たかった。フリースのリングマフラーを頚にかぶった。行く手に大きな斜面が見えた。そこを斜に人々の列が登っている様が眺められたが、静止しているかのごとく動かなかった。
 6時半頃に大斜面の下に出た。ここは西向きの斜面で、まだ未明の薄明かりの中だ。これが最後の、30〜40度といわれる壁なのであった。山頂を踏んで下山して来たのであろう、数名の登山者と擦れ違った。その中に黄色の上下のクマさんがいた。もう、山頂から降りてきたの!? クマさんは元気そうにみえた。“もうすぐですよ”といった類いの慰め言葉をいわなかった。それで、“こりゃ、まだまだそうだなあ”と、覚悟した。壁は幅が広く、スキー上手な人には答えられないスロープであろうと思った。
 斜面は登っても登っても、まだまだあるようだった。斜度のきついところで、下山者が私の脇をかすめて降り始めた。この高度では何でもないことが、大きな精神的ストレスになる。精神的ストレスは酸素需要をいつの間にか増加させる。最後の詰めがきつくなった。“最後の100mを残して下山した”などという話を耳にすると、けちな私は、“なんてモッタイナイことを”と感じてしまうのが常だったが、この時ばかりは、“こんな登りがあと100mあるというなら、降りてしまおうかな”という、欲のない考えが頭をよぎった。激しく腹式呼吸を続けたので、“下山したら、さぞや出加減の腹がへっこんでいるだろう”と、おおいに期待されたことだった。
 耐えに耐えて、耐えあきた頃に、眼前の壁が取り払われたように明るくなってきた。
 へへい、ここからどれくらいあるっていうんだいと心の中でいうと、それが聞こえたかの様にマルシアルが言った。“ディエス ミニュッテツ”
 “ヨッシャー、あと10分か”俄然、“がんばっちゃうぞ”という気力が湧いてきて、しゃんとなった。斜度が甘くなったので、1呼吸1歩で歩けるようになった。ガイドがとまった。“頂上?”と、半信半疑で顔をあげると、向こう側の雲海が抜けて見えた。実際は14分かかったぜ。7時30分だった。
 頂上はドーム状で、結構、広かった。右手、南側には、丸いお釜が黒い口を深く、ダイナミックにあけていたが、硫黄臭さや噴煙はなく、活火山のようにはみえなかった。周囲は雲海が地平線まで埋めていたが、ところどころに白いピークが島のように浮いていた。お釜のむこうにはエクアドル最高峰チンボラソ6310mが、頭を覗かせていた。お釜の光景に感激して、差し当たってはまだ喘いでる姿を1枚、マルシアルに撮って貰う。本当はもうちょっと休んでからの方が格好良い写真が撮れるんだけどなあ・・・。


左手にチンボラッソ山、右手にトゥングラウア山を掴もうとする山ボケ猫さん
トゥングラウアはこのときちょうど大噴火が起こった!?


 写真を撮りおえた時だった。突然、両手の指先に激烈な痛みが走った。冷たさが突然極限状態に達してしまったようだった。立っていることができなかった。思わず、フリースの上着の下に両腕を突っ込んで、しゃがみこんでしまった。動けなかった。この先、どうなってしまうのだろうという不安を感じた。
 ガイドは大好きな携帯電話を出して、誰かと話し始めていた。“ヘヘヘノホー”と陽気で呑気だ。“人の異常事態も知らないで!”と、腹立たしい気がしたが、他方、このどうしようもない痛みは私が自分でじっとこらえるしか方法はなく、ああだこうだとスペイン流英語で騒がれるよりは放っておかれる方が気が楽に思えた。頂上に登山者は4名いたが、下山する時に最後のガイドらしい人が、私に、“そんな、かがんでいないで、この素敵な景色を見てごらんよ”てなことを言った。そ、そんなこと言ったって・・・。しかし、5分ほどで、何とか痛みは消失した。指先の冷えに酸素不足による高度障害が加わり、一過性に動脈が痙攣したのだろうか。その後は、オリンパスカメラのフィルムも交換することができた。
 7時50分、下山開始。8時、大斜面をあと少しで登りきる、F・Sパーティに会う。良かった、全員登頂だ! Fは、“(私が渡してあった)ニトロのスプレーを二度も使っちゃった”といって、消耗しているように見えた。“生きて帰って来いよ”という気がした。しかし、後で、クマさんに聞くところによると、彼女と擦れ違った時は、コンパクトを覗きながら化粧直しをしていたそうである。てえした根性だ。他方、Fが言うには、登頂を諦めかけていたときに、クマさんに出会った、“思ったより早く登れちゃって”などと吹かれてしまい、“ムキャ───”と来て、発奮して登る意欲が湧いてきたそうである。クマさんは気付け薬の役を果たした訳である。
 空は晴れ渡り、空気は澄み切っていた。足下は白い雪原がゆるやかなカーブを持っていくつかのピークを連ね、眼前には広大な荒野が広がっていた。テルモスのテリブルなドリンクはシャーベット状になり、ことのほか、美味なる味に仕上がっていた。歩き始めと下山時では、体のニードや味覚も違っているのだろう。足下の雪原には所々にクレバスが口をあけていた。覗き込むと、息をのむほど深く広い空洞になっていた。氷の宮殿のようにも、荒れすさんだ魔境のようにも思えた。コトパクシ山の白い衣裳の下は、ガランドウな空間が蜘蛛の巣のようにはり巡らされているような気がした。
 9時30分、氷河を降りて地面に立った。登りでびびった斜面は、氷が溶けて柔らかくなっており、造作なく下れた。“ここからはご自由に”というように、ガイドとばらけて、砂礫の斜面を土煙を立てて下った。9時50分、小屋帰着。クマさんの迎えを受ける。ウルフさんにラテン特有の祝福の抱擁を受ける。が、何だか顔をそむけられているようで、そっけない気がした。小屋で我が顔を点検してみれば、鼻の下には鼻水が固くこびりつき、鼻根部に張り付けた鼻腔拡張テープは半分剥がれて斜めになり、日焼け止めクリームを塗り直さなかった肌はブチ模様になっていた。うーむ、Fの根性を見習うべきであった。
 11時前、F・S組のガイドのエドワルドが小屋に戻ってきた。ガイドと客の組み合わせは、見事にマッチしていたというべきであろう。氷河の取り付きまで一緒に降りてきて、後は一足先におりてきたらしい。“意外に早かったじゃん”と、クマさんと迎えに出たが、姿がみえてからが長く、途中で座り込んでいる姿などが遠望された。二人の小屋帰着は11時半だった。登頂は8時半だった由。Fのみならず、Sもばてているように見えた。Sは下痢と嘔吐で昨夜寝られなかったとのこと。しかし、それでも登ってしまったのはさすがというか。クマさんは、山頂5時52分着、6時25分出、小屋帰着7時42分とのこと。分単位まで正確なことから、タイムに対するこだわりがうかがわれる。“ウルフさんのクレバスまたぎのダイナミック・ウンチングがなければあと15分は短縮できた”と悔しがっていた。しかし、初の5000m峰で富士山並みのスピードが出せ、ウルフさんから“お前はホントに日本人か。このままチンボラソに行こう”といわれたと言って、大層、気を良くしている様子であった。
 この日の登頂者は30人弱だろうか。ルートは明瞭で危険なところはなく、私はずっと両手ストックで行ってしまった。ヘルメットはマルシアルが不要といったので小屋に置いていった。ホセリバス小屋までは観光客が登って来ていたが、日本人には3日間会わなかった。
 2時頃、4600mの駐車場を出発。今度は、すぐ国道のような広い道路に出た。運転手は来る時、この道を知らなかったのだろうか。夕方キトー帰着。下山後は一泊二日でアマゾンに行くという案があった。しかし、1日1便のフライトはとれず、片道車だと6時間ということであり、S氏の体調を考えて、キトー周辺観光をすることにした。夕食は受入れ旅行社の松本氏の招待で日本食レストラン“富士”に行く。私は船を漕ぎながらも、突然ガッバと起きては相づちを打っていたそうである。


オタバロでは、あらゆる種類のものが売られている
時として恋も…?

8月15日:オタバロというインディオの市場へ遠出。片道3時間。エクアドル第3の高峰カヤンベがよく見えた。チンボラソは山塊の大きい風格のある長男、コトパクシは秀麗な次男とすると、カヤンベは台形を2つ重ねた、いたずらっ子のような三男坊という感じか。この日は、ワールドカップの予選となる、サッカーの対アルゼンチン戦があるということで、運転手とマルシアルは朝からエクアドル国旗を車に立てて、はしゃいでいた。しかし、夕方のラジオの実況放送で、アルゼンチンに2点を取られてからは黙りこくってしまい、お通夜になってしまった。二人がお喋りに熱中しなかったのは、ツアーを通じてこの時だけであった。この日の夕食は、キトー在住28年の和田氏宅(ご主人はアマゾンへ釣に出掛けて不在)にて、孝子夫人に手作りの日本食を御馳走になった。

坂の町キトの旧市街
パネシージョの丘を中心にキトーの街が広がる
坂の多い街だ

8月16日:自分たちだけで市内観光をした。博物館、旧市街、土産物漁りなどをする。レストランで遅いランチをとったが、オーダーに一苦労した。夜11時半の飛行機で帰国の途についた。

 帰り付いてみれば8月18日午後3時30分。東京は秋の気配となっていた。


(2001年8月10日〜18日の記録)
山ボケ猫 著



クマさんのコメント

 コトパクシでは、ちょうどマッターホルンのときと同じ感覚で登ることが出来ました。
 不思議とまったく疲れを感じませんでした。
 マラソンランナーが“ランニング・ハイ”というものを感じるという話を聞いたことがありますが、それがどんなものだかは知りもしませんが、もしかしたらそのときの僕は“クライミング・ハイ”というものを感じていたのかも知れません。
 “へいへいへい、そらいけ〜!”って感じね。
 一緒に行ったメンバーの皆さんが、たいへんな目をして登っているのを見るにつけ、自分自身すこぶる快調だったのが正直意外でした。ですから、取り立てて“がんばった”ということはありませんでした。
 不謹慎にも渡航前からハイキング気分でいたのでしたが、それがただそのまま済んでしまったというのが本当のところなのです。
 迂闊にも「楽勝だった」「あっけなかった」と人前で口にしてしまって怒らせたり顰蹙を買ってしまったのはまずかったですが、僕のガイドはあれがベストな登り方なんだと断言してましたし、現地で暮らす彼らにしてみればそれがあたりまえのことでもあるわけなのでして、やっぱり僕の登ったペースというものがもっとも体力の消耗をしない楽な登り方だったのだろうと思っています。
 下手にガイドが歩調を緩めてくれてたなんてこともありませんでしたから。
 その意味で、マッターホルンとコトパクシの2回は、ほんとに僕と息のぴったり合った、ベストのガイドに当たったんだなあと思ったりなんかしているわけでもあるのです。

 メンヒとユングフラウのときはたいへんでした。ガイドは頭が悪かったし・・・・。

ねぼけぐま 記